ベルツ博士が伝えた"世界無比の高原温泉"
草津温泉は草津白根山の東斜面中腹に位置する。標高は1,200mで、7、8月の平均気温は19.6℃、湿度は年間平均で70%と軽井沢より低く、避暑地として格好の高原性気候をもっている。明治期、草津を訪れたドイツ人医師ベルツは、「日本の町というよりはチロルの村落が念頭にうかぶ」と、草津の風土についての印象を述べている。
また、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の空気と理想的な飲料水がある。こんな土地が、もしヨ−ロッパにあったとしたら、カルルスバ−ドよりもにぎわうことだろう」とも語り、当時世界一の温泉保養地であったチェコのカルルスバ−ド以上の環境を草津がもっていると評価している。現在、草津の源泉は100ケ所、自然湧出量は日本一で毎分34,000リットルである。草津の温泉は古来より名高く、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折発見したとも、行基によって開湯されたとも伝えられる。鎌倉時代には、源頼朝が草津御座の湯に入浴したことが『鎌倉日記』に記されている。これが、草津が記された最初の文献である。また、戦国時代には「きずの湯」として武田信玄ら大名達に重用されたと言われる。江戸期に入ると、草津は西の有馬(兵庫県)と並んで温泉番付日本一とされ、その評価はゆるぎないものとなる。
18世紀初頭には「かこい湯」と「幕湯」という内湯が設けられ、加えて、湯治客に対する宿屋同志のサ−ビス競争が始まる。
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文政6年(1823)に発行された十返舎一九の『上州草津温泉往来』によれば、草津は料理屋、酒店などが軒を並べ、美女のいる楊弓、吹矢などの娯楽施設あり、講釈師、落語家を招いてのサ−ピスありという盛況ぶりであったようだ。明治になると、ベルツにより草津温泉の医学的研究が行われる。ベルツはヨ−ロッパには存在しない強酸性泉である草津温泉に着目し、帰国するまでの間に時間湯を研究し、これを世界に紹介した。この研究論文が『熱水浴療論』であり、1896年版のドイツ内科学書に収められ、草津が世界的に知られるようになった。ベルツにより始められた草津温泉の医学的研究は、東大物理療内科の研究者に引き継がれ、昭和26年群馬大学医学部草津分院の開設に伴って、物療内科と分院の双方により継続され、幾多の研究成果が得られている。また、ベルツは草津温泉の優れた自然資源に驚き、明治23年には草津の高原に11,000坪の土地を買い求め、自ら温泉サナトリウムや遊歩道の計画に着手したが、帰国によって、理想的な温泉保養地づくりは夢となった。
現在、草津温泉ではベルツの構想を実現すべく、温泉保養地の建設に向けて様々な取り組みがなされている。江戸時代の町並みを残す旧市街地では、共同浴場の保全・整備とともに、江戸時代の街並みの復元などが行われ、湯治場の再興がなされている。また、周辺の高原では、ヨ−ロッパ型の温泉保養地が形成されつつある。
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