奥津温泉は岡山県の最北部に位置し、中国山脈のふところに抱かれた山合いのいで湯。中国山地に、東から湯郷、奥津、西に湯原の三温泉があり、これを称して美作(みまさか)三湯と呼ばれている。
温泉の起源については、さまざまな言い伝えがあり、古くは八雲朝廷の時代にまで遡る。大国主命の命を受けた少彦名(すくなひこな)命(みこと)が巡撫使として地方を巡視した際、発見されたものと伝えられている。また、療養の温泉としての歴史も古い。今から400年余り前の戦国時代には、山陽と山陰地方の諸将の勢力争いは中国山地を中心に行われていた。天正時代(1573〜1591年)石洲津和野城主、坂崎出羽守が宇喜多(うきた)左京(さきょうの)亮(すけ)詮家(あきいえ)と名のっていた頃、創痍を入湯で癒したと伝えられ、戦国時代には多勢の人々が入湯してにぎわっていた。 |
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江戸時代には津山藩主、森忠政公が入湯し、また、四代藩主、森長成公が3週間に渡り入湯して病を治したと言われ、たびたびの入湯に便利なようにと別荘が造られた。別荘の敷地は広大であり、今も「御殿屋敷」という地名が残っている。
藩主、御内室の入湯には、土地ものの使う一般浴場と藩主用の湯を別けて楼屋を作り、藩主用には常に鍵がかけられ一般の入浴を禁じた。これが「鍵湯」の由来である。鍵湯は、一般村人用の村湯と区別し、鍵湯を藩主用としたところから、上湯とし、村湯を下湯と称していた。
こうして「奥津町」という町は、藩主自ら、この温泉場に目をかけており、各地からの湯治客でにぎわっていたことがうかがえる。
現在、鍵湯は奥津荘の男子浴場として利用されており、村湯は奥津荘別館の共同浴場および町営温泉として土地の人々に利用されている。
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