NPO法人健康と温泉フォーラムは医療、環境、施設等、温泉保養地に関わるあらゆる分野における専門家を中心とした団体です。
FORUM REPORT WORKSHOP
 

いわき市における健康づくり・保養プログラムの開発と医師会との連携

石井 正三

いわき市医師会会長
福島県医師会副会長







 アクアプラネットといわれる地球に生まれた生物として、人と水とは非常に深い関係にあります。体内に「内なる海を抱えた多細胞生物」である人間が、湿り気に満ちた口から水分と共に栄養を摂取するばかりではなく、呼吸に際しても鼻腔の内部構造を通して水蒸気の湿り気を与えてから肺に吸い込む様子は、生命と水の深いつながりを毎日教えてくれます。一方で、文明の衣服を脱ぎ捨てて水に触れることは、私たちに大きな精神的喜びと満足感を与えてくれます。
 日本人は、世界でも最も湯船にゆっくり浸かって入浴を楽しむ習慣に対してこだわりを持っています。万葉集には既に温泉を詠んだ歌があり、当地の湯本温泉も「さはこの湯」として拾遺和歌集に登場しています。残念なことに日本の近代化に伴って、温泉を楽しむ様々な方法や作法がむしろ全国画一化したようにみえ、特に、高度成長期からバブルの時代には集団で短時間に移動するパック旅行などで、地域の違いや手間を楽しむよりは、効率重視でパッケージ化しやすいアミューズメントを適所に配置して、むしろ資源と一緒に自分の健康をも手短に浪費するような風潮がありました。最近になり、経済優先のシステムに大きな翳りが見られるようになって、猛烈な仕事人生だけでなく改めて人間としての個性的な生き方を再考するようになった世相は、古来「湯治」といわれた温泉の自然な癒す力について医学的・社会学的に考え直す良い機会になると思います。それでは、もう少し温泉というものを念頭に置きながら、この時代における医学的側面と地域における特質について考えてみましょう。

 「健康health」という概念をどう定義づけるかは、ギリシャ哲学以来様々に論議されてきました。調べてみますと、WHO(世界保健機関)の定義では「何事に対しても前向きの姿勢で取り組めるような、精神および肉体、さらに社会的にも適応している状態」となっています。広辞苑(岩波書店)によれば「身体に悪いところがなくすこやかなこと」とあり、以下内外の代表的辞書でも「病気でない」「異常がない」というように対立概念の裏返しで説明するか、「達者」「丈夫」「wellness」などの同義語で説明するか、そして国語辞典第4版(三省堂 金田一京助ほか)やDorland医学事典(米)ではほぼWHOの定義のように一つの状態として説明を加えています。その結果、定義の傾向はほぼ3パターンに大別できるようです。案外皆さん表現に苦労している印象ですが、少子高齢化の我が国にそんな定義がどれ位似合っているのかは難しいところなのです。と言いますのは、65歳以上の高齢者更には75歳以上の後期高齢者の医学的データを見ますと、若いときなら異常と判定されるような数値や画像所見を持ちながら一見元気そうな方が見受けられます。また、生活習慣病を持ちながら元気に社会生活をされている方は、どこが健康と病気の境なのか難しいときがあります。更に進んで、一般健診や脳ドックで、全く健康そうな方に潜在する所見や病気を見つけますと、すぐにその方を患者さんと呼ぶべきなのかどうか、大いに迷いながらご説明する事もあります。先日、世界医師会の会議でアメリカのワシントンDCに行って来ましたが、あの街を歩いている人の中には日本の常識からすれば高度肥満といえるような方々がたくさん見受けられました。しかし、時差ぼけしている私なんかよりも、どなたもずっと元気でエネルギッシュな生活をしているようです。色々考えますと、ここでは、現代における「健康」とは、肉体と精神とにおいて一種の定常状態つまりギリシャ語で言う「ホメオステーシスhomeostasisを保っていられるような状態」と定義しておいた方が現実的のように思えるのです。
 現代の日本人は、戦後の栄養改善の恩恵を受けつつ、医療・保健・年金・介護などのシステムに守られながら、長寿というかけがえのない贈り物を享受しています。高齢化というものの中には、一見元気そうでも、いざとなったときに頑張るという各臓器に備わった予備力が自然に減退しているという変化が含まれます。また、21世紀の我が国では新たな感染症や再興感染症の危険が改めて声高に語られ、遺伝子組み替え食品や環境ホルモン問題それにバイオテロその他いろいろなものを含めた現代社会の不安やメンタルなストレスにさらされています。また一方では、身体に内在する健康を脅かす様々な要因を抱えて、外部からの刺激物質などによってアレルギーやアトピーなどの状態に悩まされながら、歴史上始まって以来の高齢化社会を迎えているというわけです。

 さて、健康を脅かす様々な要素が話題に出たところで、ヒトの特質を更に考察しながら、現代に特有な問題についてもう少し考えてみたいと思います。
 地球上の生物の中で、人間は言葉を使うことと常に二本足で歩くことが大きな特徴とされています。二足歩行が可能になったことで両手が自由になり、道具をつくりまた使い始めることで、一層脳の発達が促進されたと考えられています。中枢神経系統の発達によって、五感ないし六感からの情報を総合的に判断し行動を決定するという基本的な生き方をするようになったのです。中枢神経系の特徴としては、上位にいくほど抑制系として働くという特徴があります。ですから、最上位にある大脳は、喜怒哀楽を含めたあらゆる高次機能を果たしながら、自律神経系やホルモン・バランスそして免疫系なども手綱を締めながら統括して個人としての存立と、生命体としての自立をコントロールしているのです。
 現代医学は微生物感染の脅威をかなりの部分までコントロールし、病気に対する切れ味の良い薬物治療や必要なら何処まで深い部分にでもメスや顕微鏡それに内視鏡やカテーテルなどを組み合わせて病巣を検出し治療する技術を発達させてきました。そういう治療を行うときに、同時にもう一つ大切になってくるのが、患者さんの生命体としての治癒力です。この領域においても、免疫機能や造血機能を始めとして、現代医学がコントロール可能な部分はどんどん増え、再生医療さえ実験段階となっています。しかしながら、生命のコントロールに異変が起き基本的な治癒力が低下した患者さんに対して治療を行うことは本当に難しく、まだまだ不可能と言わざるを得ない場面も出てくるのです。逆に、自然に備わった治癒力が旺盛であるなら、手術などの大変な治療を控えてでも治療が可能な場合もありますから、そういう様々な局面を見極めることは、臨床の現場では非常に大切だと考えています。
 そういった生命のバランスの要因の一つとしてあげられるのが、生命のリズムなのです。普段はあたりまえのような睡眠のリズムなども、一度失ったときには大変なつらさを味わうものです。体内における創傷治癒の過程も、未だ全体の受け渡しのスイッチやコントロールの機転は未解明の部分がありますが、見事に各フェーズの作業が反応するレベル別に時間単位で組み上げられて行われていることはよく分かっています。体内リズムといえば、代表的なものは睡眠周期を含めたほぼ24時間で刻むサーカディアン・リズム(概日リズム)から、産業医活動でも重要な週単位のサイクル、更には女性の生理にみられるようなほぼ一か月単位の周期、それに四季の移ろいに合わせた体脂肪の変化や動物でいう体毛の抜け替わりのような年単位で動くリズムなど様々な周期が体内で刻まれているのです。ジェット機で地球上の遠方の土地に一気に飛んだときには、体内時計と現地時間との食い違いによって起こる時差ぼけという現象を多くの人が体験していると思います。この時には自律神経系も同時に変調をきたすため、めまいや吐き気なども起こりますし、ちょっとしたことで風邪をひきやすくなったりもします。不夜城のように夜中まで活動している現代社会の中では、現代人はこのような移動をしなくても容易に体内リズムの変調を来しがちです。
 おそらく、昔の人達もそんな時に経験的に転地療法の意義を見つけ、それに温泉を組み合わせてその土地の持つ固有のペースやリズムに乗って生活することで、ストレスから逃れ、様々な体の変調から開放される事を知っていたに違いありません。その上、都市空間で暮らしているうちに、感じることも忘れているような、土地に根ざした固有の気象・天候・空気・気温・水質・水温・地質・生態系・人間の気質といったもの全てに囲まれて、その風土から生まれた食の文化や生活習慣にも触れていることで、心も身体も、もう一度失った生体のリズムを整調して新たな生きる活力を得ることが出来るわけです。

 ここで、今少しお話しした古来の「湯治」の概念から、現代の温泉治療について参考に出来ることを考えてみましょう。
 現代の医学は、西洋伝来のものとは言えない程我々の生活に浸透し、むしろ日本発のアイディアや論文も専門家同士の交流と一緒に海外に出ていっていますから、国民皆保険制度と一緒になって、この国の財産として既に定着しているといえます。時間的にも経済効率からしてもゆったりと数ヶ月間の湯治を行うより、切れ味の良い医療を受ける方が期待できる効果は高いと思われます。ですから、一部の疾病を除いて、急性期の病気を湯治で治そうとすることにはいささか無理があります。
 しかし、先程あげたように、ストレスを解消し、全身の変調を整え、自然治癒力や生きる活力を得る方法になると、むしろ温泉療法に期待するところが大きくなります。また、慢性の関節の障害や筋肉痛・麻痺などに対しては、水の浮力を生かした運動療法や温泉による温熱作用や血管拡張作用が症状の軽快をもたらすことが期待できます。また、精製された塩や砂糖だけを摂取している現代人は思わぬ微量電解質などの欠乏を起こしていることがあります。こんなときには、温泉の微量な成分は皮膚からも吸収されますから、失われていた体内の海における微妙な電解質バランスの補正効果もあるかもしれません。より積極的には、ある種の温泉で行われているような飲泉療法もあります。
 ただし、これからの時代に、高齢者や生活習慣病を抱えた人達を対象にした温泉治療を考えるとなりますと、温泉側の対応だけでなく、疾病の専門医や温泉療法医などの指導の元に治療を行うということが必要です。湯治の前後やその間に食事療法や運動療法を平行して行い、血圧や血糖などを慎重に診ながら治療のコースをプログラミングする必要があります。入浴の仕方も、熱いお湯は避ける、肩まで入らないようになどの一般的な注意が勿論必要です。それだけでなく、食事の直後の入浴や、まして飲酒と食事直後に入浴を行うとなりますと、危険ですらあります。一時の遊興施設としての存立を見直し、古きをたずねながら、温泉周囲の環境に癒しの空間デザインを施すことが大切です。また、散歩などの運動療法や入浴そのものも含めて、温泉滞在中における施設内サービスの手順や滞在期間中の生活リズムづくりのためには、メディカルなチェックを行った上で妥当なプログラムを利用者に選択メニューとして提示して、医療と連動して治療を行うシステムづくりが必要となります。これは、介護保険対象者においても全く同様の事が言えます。その意味では、いかに急いで大きな数の利用者を集めるかではなく、リスクマネージメントも視野に入れながら、ソフトづくりを行い、それに合わせてハードにも手を入れていく作業を行っていく必要があると考えます。



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