NPO法人健康と温泉フォーラムは医療、環境、施設等、温泉保養地に関わるあらゆる分野における専門家を中心とした団体です。
FORUM REPORT Workshop
 
■記念講演
水による治癒(温泉):
健康と社交の場としてヨーロッパの温泉保養地の過去から未来へ
健康予防と治癒の間に位置するレジャー

ウォルフガング・ナールシュテット



ドイツ・ビーレフェルド大学教授。
ヨーロッパレジャーレクレーション協会(ERLA)会長。
専門は余暇教育論、文化活動、観光事業学。特にレジャー、観光、温泉の発展などが主な研究プロジェクトのテーマである。温泉先進国ドイツにおいて、長年レジャー・リクリエーションの研究に携わり、余暇文化研究の先鞭をふるう。「ヨーロッパ温泉保養地の近代から未来」のテーマにおいて、その現状と問題点、今後方向性を示す。



1.”健康は水からくる”(温泉)
ヨーロッパ温泉史の特徴

1.1 1948年のWTO(世界保健機構による健康の定義)
 健康増進は、新たなミレニアムにおける次世代のビジネス・サイクルとして新しい革新分野になるであろう。これは長期的な経済理論の論文の中にも示されている(ネフィオドー、1996年)。その理由の1つは、WHOの1948年の健康に対する新しい定義である(アンダーソン、1987年:5)。

1948年のWHOの健康の定義
健康とは、肉体的、
精神的かつ社会的に完全に健全な状態にあり、
単に病気・病弱でないということではない。

"Complete Wellbeing"「完全な健全」という新しい健康の定義は、医学の進歩によりもたらされた長寿を反映するものであり、結果として、世界的な医療費の爆発的出費につながっている。万人に健康を、ということで、健康管理に対する各自の自己責任は益々高まる一方、健康なライフスタイルに対するより多くの金銭的投資も求められることになる。WHOの定義が健康についての解釈を広げ、病気・虚弱など以外にも、今や、健康はエネルギーを生み出す動的な過程とみなされている。しかしながら、その目標は、「高水準の健康」であり(ダン、1961年、アーデル、1986年)、健康という単語は、福祉と身体的健康の合成語(ダン)であり、健康について新しい動的な解釈(ミュラー/ランズ、1998年)を採用している。身体的健康は、高水準の健康へ向けての1つの手段である。この他に、良好な栄養、美容、休養、精神活動、社会的調和、環境に対する感受性などが加えられなければならない(ナールシュテット、1999年)。人類の歴史と世界文化の全てのポテンシャルが、健康と福祉に向けて最大限に生かされるべきである。こうした観点から過去を分析すると、新たな視野が広がってくる。過去についての知識は、より良い将来の基盤構築に役立つはずである。「ヨーロッパの温泉保養地の過去から未来へ」の分析は、世界的な健康システムの改善の1つのたたき台となるであろう。こうした観点から、ヨーロッパの温泉保養地の歴史的特徴の概要を述べる。

1.2 健康と社交の場:重要な特徴
 健康は社交に恵まれている、つまり、健康でいることと友人のいる幸せは、ヨーロッパの温泉保養地の初期から、重要な2つの特徴である。スパ(温泉)とは「サルー・パー・アクア」の頭文字(イリング、1999年:14)で、”健康は水からつくられる”を意味する。従って、癒しの水であるという事は温泉の基本的要素だが、それ以外にも、自然療法における健康づくりには、大地、空気、気候も主要素であった。ドイツ温泉協会の定義によると、温泉(「クアオルト」とは(村落とか村落の一部)で、特別な自然条件があり、土地、海、気候といった自然治癒的資源が利用でき、目的に適った施設と治癒法に沿って、人間の病気の療法、治癒、予防などの回復に向けた健康増進の場所である(ドイツ連邦協和国、1991年15)。

図02:温泉の要素と構造



 治癒(「クア」)は「物理療法」(「自然治癒資源」)に基づいているが、その他の治療形態にも組み込まれている。「健康志向型温泉」の温泉地でも、社会的接触や、社交、精神的ふれあい、スポーツ行事、ギャンブル、お祭り、文化事業、娯楽等の社会的活動が、歴史的に変遷しながらも、特に上流階級において2番目の目的となった。温泉は移り変わる社会情勢の鏡でもある。新しい政治体制は新しい温泉を発達させ、それ以外は後退させる。社会の富の繁栄は、ローマ時代後期のように温泉をも繁栄させた。17世紀以降の中世ヨーロッパにおいて、温泉地は第1に先進的紳士、次に富裕なブルジュアジー、最後に労働者といった、新興階級の参入で、利用客の校正が変わっていった。

図03:温泉利用の動機:社会状況の鏡としての温泉


1.3 疾病予防と治療の間に位置するレジャー
 ウェルネスとしての新しい健康の解釈が明白になったことから、(従来の)物理的温泉療法は、休養と社交の調和の役割を果たすようになる。温泉は利用客によって労働の場ではなく、余暇活動の場であり、温泉での健康増進は、当初から、疾病予防と治療の間に位置するレジャーとみなされていた。特に、病気や虚弱さを予防することが社交とレジャーに深く関わっていた。18世紀以降の重労働志向のプロテスタント産業社会では、特に、疾病予防が、余暇活動を正当化する役割を果たした。従って、温泉は、昔も今も、疾病予防と余暇育成の機能を持っている。ブラジルのサンパウロで、1998年に開催された第5回世界余暇会議では、仕事社会及び仕事を、人生の中心的価値に置く考えは、1800〜1950年のごく短期間であったと指摘している。どの宗教も、天国(楽園)に関する記載の中で、仕事を基本的な要素(de Masi)とみなしているものはない。従って、人間の基本的は欲求は余暇における幸福な生活を追求しているのである。余暇の開発は、温泉地の機能の1つとして将来も残るであろう。治療には専門的な医療が求められ、医学の研究と進歩を促す結果となる一方、一方温泉は医療と休養の中間の位置に残るだろう。

1.4 3つの創立期
 ヨーロッパの温泉史は、構造的に以下の3期に分けられる。
-聖なる泉からローマ時代の温泉へ:ヨーロッパの温泉文化の新興
-浴室(「Badestuben」)から国内(国際)的な温泉へ
 中世から1990年に至るヨーロッパの温泉文化の民主化の過程
-温泉文化のグローバル化:新たなミレニアムにおけるヨーロッパの温泉に対する展望

2.聖なる泉からローマ時代の温泉へ:
ヨーロッパの温泉文化の新興
2.1 聖なる泉:温泉の起源
 聖なる泉が、ヨーロッパにおける温泉の起源と考えられる。人類進化の過程が、文字で記録される以前、古代ケルトとドイツの僧侶が源泉で聖なる儀式を祝った。泉は神の御座所と信じられていた。人々は泉に来て罹患からの救いを神に祈った。泉の近くでの人骨の発見は、有史(書物の)以前に、泉が早い時期から、多くの人々を惹き付けたことを実証している(クリツエック、1990年:7)。

図04:紀元前10000年〜紀元2000年のヨーロッパの温泉文化の変遷


2.2 ”生命の水”の文化
 温泉は、人類の水文化による健康志向の産物である。水は命の源であり、人体の80パーセントは水分でできている。泉、湖、川、海の水との相互作用の改善は人類発達の要である。水浴び、水泳、潜水は、既に、最初の人類にとって、狩猟や河を跳び渡るための必要な技術であった。有史初期から水の芸術の絵や、何千年も以前、エジプトでクロール泳ぎの絵が発見されている。(プリグニッツ、1986年:9)。

図05紀元前5000〜4000年 エジプトの円筒印章に描かれたクロール泳ぎ


 健康増進や治癒目的の水利用は、人類における水文化の1部とみなされている。人類はかなり早い時期から、ミネラル、炭酸、ラドン等の成分を含む冷水や温水のもつ特別な水の治療機能を、飲水療法、水浴、プール、湖、川、海での水浴びなどの様々な形で見つけ出していた。

図06:温泉=水文化による健康志向の産物


 歴史上、治療のための水利用の形式や他の物療手段および温泉の治療体系はしばしば変化し、より多様な知識が発達してきた。例えば、ローマのテルメにおける大温泉時代においても、又、17世紀以降の有名なヨーロッパの温泉地についても、その療養形態は1つの大きな技術体系として発展してきた。

2.3 古代の高度分明の温泉
 シュメール、バビロン、アッシリア、エジプトの古代の高度文明で、「水による治癒」についての知識が発達した。聖なる泉の近くに寺院が建立され、そこでは、進んだ医術をもった僧侶が患者を療した。彼らは死者をも蘇らせる命の水の神話を語った。

2.4 ギリシア人
 ギリシア人医師は、エジプト人僧侶の医師たちから学んだ。クレタやメロスのようなギリシアの島々では、紀元前16世紀頃の浴槽のある古い小さな浴室が見つかっている(プリグニッツ、1986年:12)。

図07:クレタのクノッソス宮殿の浴槽


シャワーを浴びることは、既にギリシア人によって行われていた(13)。

図08:紀元前6世紀のギリシア人女性の入浴


 ギリシア人医師とヒポクラテスは、最初に水の様々な治療の可能性について体系的理論を開発した。この医学的理論はローマ時代のテルメ、水浴、温泉による健康管理の基礎の1つとなった。

2.5  イスラエル
 聖書は、シロア湖やベセスダ湖に続くシオン山の2つの泉について記している。イエスは両方の泉で患者を治療した(ジョー 5、2-9)。泉には何世紀も前から、何千人もの病人が押し寄せた。人々は水中で波が寄せてくるのを待った。当時、人々は天使が水を移動させ、最初に水に飛び込むものが全快すると信じていた。

図09:ベセスダ湖 1545年のチューリッヒの聖書の木版画から


3.ローマ時代の温泉:ヨーロッパ温泉文化における最初の脚光
3.1 ローマ帝国
 ローマ時代の温泉は、何千年も以前の人類の歴史以来、古代水文化の最後の光景と見られている。衛生上、医学上そして宗教上の理由から、冷水浴およびシャワーは非常に歴史が古い。北欧では、近くの川や湖で最後に仕上げとしてリフレッシュするために熱い蒸気風呂(サウナ)に入ることがよく知られている。ローマ時代の温泉はこのような伝統的温泉の要素が多く組み込まれ、人類有史以来の温泉文化の発達を最初に集約したものである。
 ローマは、紀元前500年から紀元500年の間の100年に、地中海(「Mittelmeer」)沿岸で、小さな村落から「世界的な」帝国にまで発展した。しかし、ローマが唯一のヨーロッパ全土を支配していたわけでもなかった。ローマ帝国は、ヨーロッパ南部、アフリカ北部、「小」アジア(オリエント)の西部を含んでいた。ローマ時代の温泉文化には、当時の先進地域の健康知識が統合されている。こうしてヨーロッパの温泉文化は、最初から国際的な基盤を持っていた。

3.2 ローマ時代の温泉
 ローマは、紀元前753年の建国と言われ、西ローマ帝国は、紀元5世紀に滅亡した。帝国最後の500年間に、有名なテルメとしての高度な温泉文化が発達し、紀元前19年には最初の壮大な「アグリッパ」温泉が開設された。ローマにある最後の「コンスタンチン温泉」は、アグリッパ将軍、政治家として先制君主アウグスタスの義理の息子であった紀元324年に建てられた。アグリッパ温泉は、14,250平方メートルもの敷地にあった。この温泉には、すでに空調設備が備えられ、ローマ時代の温泉文化にはじめて熱風温泉を紹介した。これはローマ人が、新たな国の征服過程で、いかに特別な温泉の伝統で新しい習慣を実行し、発見した様々な温泉形式を段階的に取り入れていったかの1例である。ローマ時代の皇帝である、ネロ帝、タンカス帝、カラカラ帝、ディオクレチアヌス帝、コンスタンチン帝たちのほとんどが、競ってより立派なテルメ(温泉)を建て、権力と富を誇示した。その中でも最も美しいのはディオクレチアヌス帝のテルメ(温泉)で、同時に3,200人が入浴できた。その周囲には、2,400の大理石の休憩用のいすが置かれ、3,000の雪花石膏の管があった。立派なテルメ(温泉)は、様々は浴場の可能性を提供しただけでなく、レストラン、スポーツ、教育、社交、美容の施設も備えていた(プリグリッツ、1986年:7-25)。

図10:紀元216年設立のローマのカラカラ大浴場(微温浴室=温微風の大浴場)
図11:ローマのカラカラ大浴場(冷浴場=冷風浴室)


 ローマでは、紀元前330年には、11の大温泉と850以上の公衆浴場があり、そのほとんどが貧しい住民から入浴代を取らなかった。日々、7億5千万リットルが全ての浴槽に注水され(プリグリッツ、1986年:16-26)、16キロメートル離れた泉から引かれた。ローマ最古の水道管(アクアダクト)は、紀元前312年に、有名な執政官のアピウス・カラウディウスのときから建設されていた。紀元226年まで更に10軒建設され、そのほとんどが50キロメートル以上の長さの水道管を使い、9軒は、ほぼ大温泉にのみ利用されていた(プレイティカ、1984年/1999年:312)。ローマの水道管は、合計約400キロメートルに達していた。(プレレィカ、1992年:325ff)。

3.3 健康増進と娯楽:panem et circenses in spas
 紀元350年頃、ローマの人口密度は非常に高かった。1,400ヘクタールの土地に、1,790軒の上流階級の邸宅と46,600軒の住宅があり、そこに60〜120万人が居住していた。これは1ヘクタールあたり400〜800人が住んでいたことになる。これに比べて、ドイツのミュンヘンには、31,000ヘクタール(約124平方マイル:約250ヘクタール=1平方マイル)の土地に126万人が住んでいた。つまり、1ヘクタール当りの人口の5〜10パーセントが、ミュンヘンの1ヘクタールに住んでいたことになる。したがって、ローマ時代の温水浴場や温泉は、極度に貧しく狭い自宅に代わる野外娯楽の場所であった(プレティカ、1984年/1999年:312)。

 娯楽を兼ねた入浴の楽しみは、皇帝時代後期にはローマ人の生活の主要な活動になっていた。実際「風呂マニア」の話もある。(プリグニッツ、1986年:25)。しかし、浴場は医学的健康管理の場所でもあった。殊に、ギリシャ人医師や戦争の捕虜、奴隷が、「最初の」ギリシャ人医学博士ヒポクラテスの健康管理技術を伝えた。このように、ローマでは、すでに温水と入浴は、健康管理の「グローバル化」の場所となった。ローマ帝国のあらゆる分野の治療知識が医療行為に統合された。紀元前1世紀には、ギリシャ人医師アスケルピアデスが、冷水シャワーばかりでなく温風浴も紹介したが、蒸気、熱風浴、砂風呂、泥風呂、ワイン利用の治療や、疾病の手足に対するリハビリテーションも、ローマ時代の浴場の医学的環境に含まれており、それらが温泉に発達した。

 ローマ時代の温泉文化は集約を見るに至ったが、同時にヨーロッパ、アフリカ、小アジアの征服地域の治療知識に刺激を与えた。後に有名になる温泉地、ウイズバーデン、バーデンバーデン、ピルモン、スパ、サンモリッツの(温かい)泉は、既にケルト人、ドイツ人、スラブ民族によって、ローマ時代から聖なる地として利用されていた。ローマ人これらの場所を発展させた。イングランド(例、バース)、ドイツ(例、トライア、紀元300年)、トルコのように、ローマ軍団が現われた場所には城と温泉が築かれていった。いわゆるアラビア風呂、トルコ風呂のようなローマの熱風浴場が、今日まで生き残っている(プリグニッツ、1986年:16〜27)。

4.公営の温泉:中世から1990年に至るヨーロッパ温泉文化の民主化の過程
 ”万人のための温泉”を、これは、ヨーロッパの温泉文化の第2の繁栄期であった。紀元5世紀の西ローマ帝国後、中世にその発達が始まった。この発達は、鉄のカーテン崩壊、ドイツ統一、ヨーロッパ連合の開設によって終止符が打たれ、1、500年の幕を閉じた。

 西ローマ帝国滅亡により、ヨーロッパが再結成された。南北ヨーロッパの水文化は、新しい体系を発展させるに至った。北からは古代ゲルマンとスラブの温泉の慣習が、そして南からはローマの慣習が交じり合うことで、うpろ強烈に影響し合った。ロンドン、パリ、ケルン、ハンブルグ、プラハ等の大都市の発達によって、清潔で健康的な生活のための集中的水利用のニーズが強まった。中世には、浴槽のある浴室(「Badestuben」)が、特に裕福な市民の住宅や商業用の都市の温泉で発達した。紀元11〜12世紀の聖地巡礼は、再び、ローマ時代の温泉の伝統を強めることとなった。(プリグリッツ、1986年:図表I:49ページ)

図12:ワルテ家のヤコブ。1300年頃の男子修道院の歌曲の手書き([Liederhandschrift])
図13:紀元16世紀の浴槽
 しかしながら、プロテスタント倫理(1517年のルター論文)は、都市温泉の利用、特にその娯楽的機能を低下させた(79;32;絵7)。


図14及び15:1481年の男女の混浴風景


図16浴室。1496年のアルブレヒト・デューラーの木版画


 15〜16世紀には、ペストと梅毒の大流行や木材価格の高騰により都市浴場の時代は終わり、ミネラル温泉の時代の幕開けとなり、それとともに「飲水療法」も始まった。

5.3 上流階級の温泉村(1492〜1750年)
 グローバル化は、1492年コロンブスのアメリカ発見によって始まった。インカ帝国の金脈からの富がスペイン経由でヨーロッパに流入し、裕福な上流階級が興った。彼らは、より良い健康生活を求め、温泉村を発展させた。ミネラル温泉は14〜15世紀以降、イタリアに始まり、オーストリアのフィラハ、スイスのバーデン、ドイツのバート・ピレモント、チェチェンのカールスバードがこれに続いた。最も好評だったのは温かい泉で、野天風呂(「Widbab」)あるいは、若い泉(「Jungbrummem」)と呼ばれた。迷信や集団誘発が温泉の発達に大きな役割を演じ、その典型的な例は、ピレモントの「奇跡の泉」(wunderferlauf)と知られているドイツのバード・ピレモントの発達である。1552年には、ピレモントで酸性の泉が再発見された。この温泉は、「新しい泉」「癒しの泉」「聖なる泉」として瞬く間にヨーロッパ中に知れ渡った。1556年には、健康人、病人合わせて、4週間に1万人以上が温泉を訪れた。皇帝や王侯貴族も温泉を訪れ、発達を促した。皇帝カール4世は、チェコの村ヴェリーの近くで、名称はカローラ・ヴェリー(「カールの浴場」)となっている。カール5世は、16世紀に黒い森のウィルトバートを、フランスのヘンリー4世は1609年にビシーを、ルイ13世は17世紀にフールジェを、アン女王は1703年にバースに力を入れた。30年戦争(1618年〜1648年)後、これら温泉地は、益々ヨーロッパ上流階級の保養地として栄えた。(絵21)

図17:ウィーン近郊のバーデンの浴場


 中世ヨーロッパ最初の温泉文化の興隆が始まった。バーデンバーデンのような古代ヨーロッパ時代の温泉が復活し始め、バード・シュワルバッハのような新温泉も出現した。30年戦争後、この村はドイツで最多の来訪者を誇る大規模な温泉として繁栄した。そこには、30卓のルーレット、巨大な舞踏室、大型狩猟場などが設けられていた。舞踏会で踊るのを許されたのは王侯貴族のみであった(82)。この時代の末期には、温泉のもつ健康に対する効能についての医学的知識が深まり、水の乱用を戒め、公衆の健康教育が推進された。

5.4 ブルジュア階級の海水温泉(1750年〜1883年)
a)新しい流行を定着させたブライトン
 産業革命はイギリスで18世紀終わりに始まり、ジェームス・ワットが1765年に最初の蒸気機関を開発した。アメリカの独立戦争(1776年)とフランス革命(1789年)が、西欧世界の経済的社会的構造を変えた。労働者が地方から都市に移動し都市は発展した。1780年に、ロンドンにはすでに70万人が移住していた。ヨーロッパで、新しい貧困労働者階級と新しい裕福なブルジュア階級が広がった。チフス、くる病、腺病、皮膚病のような危険な病気も発生した。医学が、海水(「thalasso」)と海浜健康への有効性を発見し、ブライトンとビアリッツの間にタラソセンターが出現した。

 1700年に生まれた医師リチャード・ラッセルは、イギリスのタラソセラピーの父として、また、近代タラソセラピーの祖と見なされている。彼は18世紀中期に、運河河口の小さな漁村であるブライテルムストーンに浴場施設を建設した。その小さな村は、瞬く間に発展し、有名なブライトン温泉となった。多くのイギリスの海水温泉はやがて大きな都市となり、19世紀初めには、イギリスにはすでに約60の大海水温泉ができていた。
 上流階級に新興ブルジュア階級が加わり、徐々に海水温泉を変えていった。1782年に、プリンス・オブ・ウェールズ、そして、ジョージ4世が、娯楽のためにブライトンに滞在した。その海水温泉は、イギリスのバース、ドイツのバーデンバーデン、チェコスロバキアのカローラ・ヴェリー(カールスバード)などの古い内陸温泉コンサートからも次第に学び取っていった。賭博場、劇の上演、温泉コンサート、お祭りなどが、スカボロ、マーゲイト、ハービッチ、デール、ヤーマス、ウェーマス、サウサンプトン、デヴォンシャーなどのイギリスの海水温泉を席巻していった。そして、健康と社交の間、健康管理と幸福な生活の間、治療とレジャーの間の緊張が新しい空間を実現した。「利用客総数(8千人)の約3分の2が(1800年頃)娯楽のためのみにバースへ旅行している」(149)。

図18:シェルブールの海水浴場。1890年頃のプレドーメの木版画
図19:1800年頃のヴェニスのゴンドラの海水の浴場


b)ヨーロッパの反応
 イギリスの例が、他のヨーロッパ諸国に影響を及ぼし、1793年にバルト海沿岸のドバランーハイリンゲンダンにドイツで初めての海水温泉ができた。4年後の1797年には北海のノルデルネイ島、その後フォルガルージ(1804年)、カックスヘブン(1816年)、フェール島のウイック(1819年)がこれに続いた。フランスでは、1860年頃にビアリッツがフランス皇帝やフランス、スペイン、イギリスの富裕な上流階級の毎年の滞在によって、海水温泉として重要な地位を築いた。海水温泉は、イタリアやナポリの海岸でも発達した。(絵51;129ページ)

c)内陸温泉の興隆
 19世紀に入って、資本主義産業社会における新興富裕階級の影響を受けて、内陸地の温泉も増加し始めた。1800年には、カローラ・ヴェリー・ピレモント、アーヘンのような有名な温泉でも夏季期間中に600〜1,400人の利用客があっただけである。バーデンバーデン、キシンゲン、エムス、ウイスバーデンは19世紀の間知られただけで、ロシア、ハンガリー、スペイン、ポルトガルの多くの温泉や合衆国のサラトガ、ウォーム・スプリングスさえも同様に利用客は減少していった。リバプール(1842年)、ロンドン(1846年)、ウィーン(1848年)、ハンブルグ(1852年)等の大都市に大浴場が建設され、健康と社交的娯楽の役割を果たした(絵84)。

図20:ウィーンのソフィ浴場の大広間。1860年頃のリトグラフィー


 19世紀に温泉は数と富において繁栄したばかりでなく、医学的適用分野を拡大した。水は最初から温泉の基本的要素であったが、18世紀以降に(海の)泥、沼沢地、(熱)砂が癒しの要素として再発見され、物理的療法に取り入れられた。特にチェコのフランツェンバート、マリエンバート、カールスバートの3温泉には18世紀初め泥浴場が開設された(174f)。

5.5 万人のための温泉:労働運動が温泉に参入(1881-1990年)
a)増大する数
 ビスマルクの社会保健法(1881-1889年)は、「ドイツ帝国」において労働者にも温泉を開設した。労働者運動がもたらした重要な結果は、ドイツだけではなかった。全ての労働者が、治療または健康予防の目的で、3年間に4〜6週間まで滞在治療の権利を勝ち取ることができた。新しくローマ時代の温泉地が再現されたが、1990年の経済のグローバル化で終わりを告げた。そして、今、地球規模の温泉文化のネットワークが生まれようとしている。
 バート・キッシンゲンの膨大な数の温泉利用客は、過去2世紀間の温泉地の飛躍的な成長を物語っている。(バート・キッシンゲンの温泉経営、スペクトで 1979年)

図21:1800〜1982年のバート・キッシンゲンの利用客数


 1884年の社会保険法以来、利用客数は急増し始めた。2つの世界大戦の間(1918〜1939年)、利用客数は高水準で停滞したが、第ニ次世界大戦後の奇跡的なドイツ経済成長の間(1945〜1970年)温泉は再構築され、その数は増大し続けた。こうして、万人のための健康は現実のものとなった。

b)診療所化と観光化:1971〜1989年
 伝統的な温泉では、温泉訪問客や顧客が、小さなペンションやホテルに滞在し、温泉医師の下で治療に通うのが典型的であった。「吹くしによる湯治客」(社会保障制度で支払われる)の数の増加と、増え続ける医療費が変化をもたらした。加えて、温泉は新規成長サービス産業に移行する中、注目を集め、70年代以降ドイツの温泉は、新しい健康市場の位置を占めるようになった。それは特に以下3点の理由からであった。

b-1)転地療養地(Luftkurote)
 温泉の新分野として転地療養地が開発され、新しい温泉法で規定された。もはや健康的な水だけが温泉の基礎ではなく、健康によい空気、気候、環境も次の理由により温泉地として断言できるようになる。

-健康志向の理由から、ドイツ社会で健康予防の必要性及び健康増進への関心が人々の間に広がっていった。
-しかしながら、経済的な事情は、失業の増加で奇跡的成長が最初の危機に瀕したことであった。転地療養地としての名称とその機能によって村に訪問客をもたらし、これが新しい職場を創出するはずである。例えば、ノルトライン・ヴェストファーレン州では、在来の水を基礎にした22の温泉に加えて、新たに21の転地療養地を宣言したので、温泉の数は倍の43となった。
 転地療養地設立の効果の1つは、余暇・観光志向の「ソフト」への理解、ヘルスケアと医療に対する理解が再び一層深まったことである。

b-2)診療所化
 次のような理由から、新設の医院や病院で集中的な温泉療法が行われた。
-手術後のリハビリテーションと治療(AHB)が、強化されるべきであるとされた。
-健康市場に新規参入の強力な資金グループを通じて、医院や病院が温泉はの投資を開始した。
 この診療所化の1つの効果は、湯治客を温泉村とその村民から分離したことである。小さなペンション、旅館、商店で働いていた多くの温泉地住民が失業した。
b-3)観光化
 温泉が新しいターゲットとして勧誘する対象は、健康法による温泉療法利用の福祉的温泉客ではなく、自分の意思で出かけてくる自己負担客で、温泉村のホテルやペンション滞在の健康志向型観光であった。温泉の健康志向型観光という新領域への第一歩は、すでに70年代以降に踏み出されていた。
 このような傾向は、利用客数を増加させたが客構成も変化させた。つまり、短期滞在(1997年8.7日)の健康増進観光客(個人客)の数が増えた。長期滞在(21.7日)の固定客(「社会的治療客」)の数は減少してきており、今後もこの傾向は続くだろう。(ドイツ連邦共和国e.V.1995年)

図22:1950年〜1994年の西ドイツの温泉利用客の数と構成(千単位)


5.グローバル化の展望:ヨーロッパの温泉が世界市場に参入:1990〜?
5.1 1989年11月9日にヨーロッパの戦後が終わった。鉄のカーテンが崩れ、ヨーロッパの東西分割が終りを告げた。ドイツは統一され、住民は1千7百万人の新住民を迎えて8千万人以上となった。温泉も280から320に増加した。(シッツアー、1996年:323)

図23:1995年頃のドイツの温泉地図


 ヨーロッパ(ロシアを除く)にある約1,500の温泉のうち、現在、20パーセント以上がドイツにある。温泉数は、イタリア(300)とほぼ同じく多く、スペイン(128)とフランス(104)が、それより10パーセント少で続いている。
 約1350万人の訪問客が、1,500のヨーロッパの温泉(1994年)を訪れ、その内1000万人(7.5%)がイタリアへ、35〜61万人(2.5〜5.0%)がフランス、スイス、フィンランド、スペインへ行った。ヨーロッパの温泉への約1350万人の訪問客が、約1億5000万日(平均11.1日間)滞在し、そのうち、1億1600万日(約80%)をドイツの温泉で過ごした。(ESPA/Reppel+Partner 1995)

図24:ヨーロッパの温泉の1994年の利用客の数と滞在日数


これは、1994年におけるドイツの温泉への来訪者は1,000万人であったことを示し、ドイツ人口8000万人の約15%に該当する。他のヨーロッパ16ヵ国の1,223ケ所の温泉地への来訪者350万人は、ヨーロッパの人口3億5000万人のわずか1%に当ることを意味している。これは、ドイツでは90年代初めまで、温泉地訪問が貴重なレジャーと見なされていたことを示している。1996年までドイツの労働者は、全員3年間に4〜6週間まで温泉に滞在する「湯治」という権利を持っていて、90年代中頃ドイツ人は世界で一番積極的な温泉利用者であった。こうしたことがドイツの温泉に、高水準の医療及び接客サービスの向上をもたらした。他のヨーロッパ諸国の温泉は、別の利便を図り、東ヨーロッパの温泉は低価格で(今でも)、南ヨーロッパの温泉は日光浴を強く打ち出した。こうしたことでドイツからの来訪もある。
5.2 温泉の危機〜福祉国家の限界:1996年〜?
 1996年に社会福祉法が変わり、「湯治」に行くドイツ労働者の権利が厳しく制限された。現在は、4年間に(これまでは3年間)3〜5週間(これまでは4〜6週間)の滞在となり、補助金も削減された。その結果、1997年には多くの温泉で一晩泊まりが30%以上が落ち込み、医院や病院は閉鎖を余儀なくされ、何千もの職場が失われ、温泉の新しい概念が急務となっている。

 イギリスは、18〜19世紀の温泉の発展を牽引してきた。19世紀中頃には、約200の温泉地があったが、その後の100年間で様々な理由からその数は大幅に減少し、1990年頃には、イギリスに温泉はもはや無くなっているだろう(ベーコン、1997)とも言われた。トンプソンは、すでに1978年に、バース、ドローウイック、レミントンなど少なくとも8ヵ所の温泉復元を提言している(トンプソン、1978)。有名な都市バースは、今、ちょうど温泉の一新に着手している。

5.6 次のミレニアムに向けての考え方と戦略
 これはドイツおよび他のヨーロッパ諸国の温泉政策に対する警告にちがいない。ヨーロッパの温泉文化は浮き沈みの時代を経てきたが、万人のための福祉への欲求は世界的になっている。福祉は、世界産業の新しい長期的波動サイクルにとって革新の基軸と考えられている。健康政策、健康経済、健康教育を統括する健康社会への働きの中で、ヨーロッパの高水準の温泉文化が生き残りをかけて協力方法を見出すにちがいない。それには、温泉の新しい概念と戦略が必要となるだろう。温泉は、万人のための健康ライフスタイルへの新しい流行を定着させるものとならなければならない。


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