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| パネルディスカッション-3 日本の温泉地の魅力あるサービスヘの提言
独断と偏見を承知で言わせてもらえるなら、21世紀は「観光」という分野が我が国の基幹産業として脚光を浴びる時代となるであろうと考えている。日本の温泉地も世界から訪れる人々のニ一ズに対応できるか否かという点が大きな課題となることであろう。が、その前に、現在の温泉地や温泉旅館が変化を続ける日本人の温泉志向をどう掴み、どう対応してゆくべきかを研究する必要に迫らていると思うのである。旅の体験を重ねた国民はすでに既存の温泉地・温泉旅館の在り方に満足をしてはおらず、その変身を求めているのも事実だからである。 温泉地に求められる変化とは これ迄繰り返されてきた幾つかの観光的なブームに加えて、竹下内閤の「ふるさと創生資金」というカンフル剤は、全国津々浦々に驚異的な数の温泉を生むこととなった。探査技術の進歩と掘削技術の発達により、いまや1500m〜2000mという深度まで掘削が可能となり、一部失敗はあるものの、ほぼ確実に温泉を掘り当てられるようになったからだ。そのため地方行政が温泉掘削に意欲を燃やし、「一村一湯」といっても過言ではないくらいの新温泉を誕生させたのである。それもこれも地方行政が日本人の温泉に寄せる「こだわり」を十二分に承知していたからであり、温泉さえ開発できれば、観光地として地域の活性化が計れると信じたからにほかならない。実際、名も知られぬ寒村が開発した温泉を利用して作った立ち寄り湯に、年間20万、30万という入湯者が訪れる現象も珍しいことではなくなった。地元の主婦たちが賄う蕎麦やうどんだけの軽食堂が立派に成り立ち、周辺農家の運び込む農産物が売れて、現金収入の道が拓けるなど、資金名目の「ふるさと創生」にたがわぬ大きな効果をもたらす部分も多かったのである。この立ち寄り湯ブームは、沮泉旅館へ宿泊しないでも手軽に温泉が利用できるということで、旅行客のそれ迄の「温泉」の捉え方や利用の仕方に大きな変化を起こすこととなった。1日500〜1000円前後で安価に温泉が利用のできるところから、週末を利用しての湯治や家族の行楽先として盛んに利用され、リピーターも生まれるほどで、国民が温泉体験を重ねる新たな温泉施設としてすっかり定着したのである。 ![]() 有史以来、日本人と温泉のかかわりには永々と築かれてきた深い信頼関係がある。医薬や福祉行政の未発達なつい最近まで、我々の先祖たちは温泉で心身を癒してきた。残念なことに明治開国以降の西欧文化崇拝主義から、既存の民間療法や伝統文化への排斥的な風潮が強まり、温泉療養も迷妄かつ非科学的な習慣として捉えられることが多かった。返って明治9年(1876)に来日したエルウィン・ベルツ博士の方が「長く伝承されてきたということは、必ず医学的な効用があるにちがいない」と信じ、伊香保温泉や草津温泉の研究に手を染め、温泉療養地の計画などを考えたほどだ。ともあれ我々日本人は明治以降、温泉を本来の温泉として使用すること忘れ(東北・九州の一部を除く)、多くは汗を流すための便利な湯として使われることが多くなっていった。それは湯治的利用から観光的活用へという、当時としては発展的な変化であったともいえる。特に昭和40年代に入って起こった団体旅行ブームでは、伝統的な湯治場であれ、山奥の一軒宿であれ、大広間を作っての宴会型サービスが要求された時代だった。一日の汗を流し、宴会のビールを美味く飲むための方策として温泉が重宝されていったのである。 しかし、こうした団体移動型旅行のブームも旅行会社主導型ではあったにしろ、一般大衆が旅の楽しさに目覚め、温泉の体験を重ねてゆけたという点で評価したい。その体験の中から後の日本旅館ブーム、温泉ブームが生まれ、国民のライフサイクルに「旅行」が完全定着し、新たな温泉愛好者を増やしたからである。そしてもう一つ、自主的に旅のできる体験豊富な旅人をも育てることができた。つまり個人旅行者の増加である。一方で活字や電波によるさまざまな情報システムの急速な発達もあって、個人が欲しいと思う情報が容易に手に入るようになった。成熟した旅行者の増加は、不特定多数を対象に、最大公約数的なサービスで良しとしてきた温泉地や温泉旅館にあきたらず、いまやより自分の希望にそうサービス・満足度を探りはじめてきたのである。 それまで旅行会社の指導に従って経営していればよかった観光地や旅館は、ひとりひとり客の顔の見える経営をこころがけねばならない時代に入ったのである。言い換えれば受け入れ側のアイデンティティが客層を選ぶ時代になってきているということである。要は温泉地や旅館自身が何処を目指しているのか、ユーザーへはっきりアッピールすることが要求されてきている。マスセールのみを志向し、旅行会社の顔色さえ見ていればよかった観光業それぞれが、自業に対する「思い入れ」の程を世に問う時代となったのである。 町としての魅力づくりの必要性 いまや温泉地は旅行者側から「宿泊地」ではなく「目的地」としての変質を迫られている。宿泊施設も多様な施設があったほうがよい。温泉地の中での住み分けが多様であればあるほどその町は魅力を増すことになるからである。大ホテル、高級旅館、一般旅館、民宿、公営の宿、種類が多い方が集客は増すはずである。数年前、熱川温泉で1年問公営の宿が改装工事のため休業したところ、その年問宿泊人数だけ温泉地の入り込み数が減少し、売店や公園の売上がダウンしたという例がある。さまざまな目的の旅行者が来てこそ温泉地は賑わうのである。 温泉地が目的地となれば「町づくり」の再考も必要である。温泉地における町歩きやショッピングは、旅行客にとって大きな魅力なのだ。しかし、現実には生き生きとした温泉町が非常に少ない。先ず第1に観光ブームやバブル期に旅館が大型化して客の抱え込みに走ったところから、町としてあるべき循環性が失われたこと。第2は団体旅行の形態が宿泊と宴会だけのための旅館利用であり、制限された時問帯の中で客に町へ出る時間的なゆとりを持たせなかったこと。これらが町の衰退を招く結果を生んだのである。客が少なければ店は閉める。魅力的な商品も売れなくなるし、客も暗くてつまらない町へは出ない。この悪循環が日本の温泉地の衰退を招いたのである。 しかし、個人客が増加の傾向にある現在、町の活性化は必要不可決の条件である。美しくて安心な町づくり。浴後のそぞろ歩きの楽しめる町づくり。それが旅の目的地となった温泉地の使命であり、サービスであると思う。なお付け加えるなら旅行客の7〜8割は女性客で占められていることを、受け入れ側は強く意識する必要がある。対象が決まれば温泉町の再開発も旅館のサービスも自ずと方向性が決まってくるはずだ。 ![]() 外国旅行に慣れた旅行者はヨーロッパの温泉町の美しさをよく知っている。伝統を踏まえた清潔で美しい町、ショッピングの楽しさを味わえる町。つまりは歩ける町づくりが待望されているのである。修善寺温泉の青年部が桂川畔にわずかに残った竹林を活用して散歩道を整備したり、店ごとに大暖簾を掛けて町並みの統一観を計るなど、努力しているところもある。小さな努力も積み重なれば大きな力となるものだ。しかし現実には個々が目先の利害や面子にのみにこだわって、協力体制の組めないところが如何に多いことだろう。 癒し志向と新しい温泉保養地 99年10月30日号の『日経流通新聞』紙上で温泉についての調査報告が紹介された。調査は首都圏と近畿圏の20代〜50代の女性800人を対象にアンケート形式で行なわれたもので、半年以内に泊まりがけの温泉旅行を希望していると回答した人が既婚者で68%、未婚者で73%に達している。しかもその目的は「温泉に入ってのんびりする」が1OO%に近く、「自然に親しむ」が65%、「食事を楽しむ」が63%、「名所旧蹟・町並みを楽しむ」が52%と続く。そして同行者は家族・親戚、夫婦、友人で占められているのは国内旅行の特性であろうか。宿泊数は目下1〜2泊中心だが、3泊以上という人も16%を占めている。こうした傾向に「団塊の世代が50代に入ったこともあり、今後は何日も温泉旅行を楽しむ人々が増えることが予想される」と同紙は予想している。女件に限らず都会生活者が何を温泉旅行に求めているか、この数字に集約されていると思う。最近の特長として温泉旅行に心身の「癒し」を潜在的に求める人々が増えていることは確かで、同紙上でも温泉を選ぶに際して「温泉の泉質が良いこと」という条件に高得点が入れられていることに驚いた。かつては宿泊先の設備と食事に旅先や宿選びの条件がしぼられていたからである。旅慣れた日本の旅行客は、いまや泉質の善し悪しで宿泊先を選ぶほどプロ化してきたのである。その要因の一つにライフサイクルの中で、旅行が健康管理と転地保養の意味も兼ねてきはじめたという傾向を見ることができる。 ![]() ただし、こうした人々はいわゆる病気療養的な温泉を志向しているのではない。強いていえば連泊の中で温泉を利用し、未病管理を計るというところである。したがって年に1度ということではなく、シーズンごとや1ヵ月おきといった定期的な利用を希望している。ところが残念なことにこうした旅行者が求める宿泊施設が誠に少ない。一般旅館の多くは宿泊料金の点で旅行者側の予算と合わない。連泊となると料理にも飽きるし品数も多すぎる。ファミリーで連泊できるリーズナブルな料金と健康管理に叶う食事が提供できるシステムを考えられないものか。 ![]() 「1泊2食、部屋だし」という、日本旅館のシステムを「伝統」という大義名分で縛っているかぎりは無理であろう。日常の中でレストランでの食事に慣れた人々が、日本旅館だからといって、なぜ部屋食を強要するのか。それが多数の声であるとすれば、一に食事処の不整備によるところが大きな原因であろう。雰囲気のよいレストランを作って好きなメニューをチョイスできるシステムを作ることで、人件費の節減が計れ、食泊分離や食泊別記といった方法で値頃感をアッピールできることは、すでにこの伊豆半島の旅館でも実験済みのはずである。首都圏に近く、豊かな自然と温泉に恵まれた伊豆半島そのものが、すでに日本の温泉リゾートの条件をそなえている。心身の癒し方は客各自が己の条件ににあった方法を考え出すはずである。要は財布にあった場の提供をできるか否か、の問題である。日本の宿泊施設は時代の要求と共に変身してきた。新しい試みをぜひこの伊豆半島から始めてもらいたいものである。 外国人旅行者受け入れの問題点 つい半年前まで私は「21世紀、日本の温泉が人類を救う」と信じ、そのための温泉保養地立国を吹聴してまわっていた。それだけ人体に影響を及ぼす力のある温泉が日本列島各地にはたくさん湧いている。そして私達は長い問その温泉を利用して病気予防やアフターケアに役立ててきた。その自信は大きく、日本の温泉の治癒力についてはいまも信じて疑わないところだ。 しかし、99年9月にヨーロッパの温泉を3ケ所ほど見学するに及んで「人類を救う」のは無理かも知れないと思い始めている。特にヨーロッパ各国の温泉の利用法を見るに及んで、高温入浴という日本人特有の習慣は、世界でも特異なものであることを痛感しざるを得なかった。低温浴を習慣とする彼らヨーロッパの人々は、日本人と同じくらい長い温泉利用の歴史を持っており、ローマ人の作った大浴場などでは日本と同じように湯にひたる方法もとられていた。しかしその後は病気療養の場となり、現在もファンゴ(泥パック)や蒸気吸入、温泉シャワー、噴射、水中運動のための温泉プールなど、なんらかの人的な形態をプラスして、医師の指導のもとに病気治療に使われている。ヨーロッパの人々にとっては病気治療のための温泉であり、単に大きい湯舟につかって四肢をのばしているだけでは「温泉療養」とは認められないのである。しかも40度以上の高温に何分もつかるということなど「地獄の釜茄で」に遭ったようなもので、思いもよらないことである。 エクスレバン温泉(フランス)のリュウマチ治療専門の国立病院を訪れたおり、事務長に「日本には低温浴はないのか」と問われた。「36度〜38度の源泉に40分〜1時問入浴して湯治効果を上げている温泉が何ケ所もある」と答えたところ、「オー、クレージー!」と呆れられてしまった。40分という長時間、湯に浸かっているということ事態、彼等には理解できないのである。 つまり基本的に温泉の利用の仕方も違えば、利用温度も異なるのだ。お互い長い温泉体験を重ねてきているがゆえに、白分たちの温泉文化には絶対の自信を持っている。そうした人々へ我々が利用している温泉施設を提供しようとしても、拒否されることは目に見えている。真冬、タイのリゾートにリウマチや神経痛の老夫婦がグループで避寒に訪れているのを見て<日本の温泉へ同じ2週間湯治に来れば、痛みが和らぐどころか1年間痛みに悩む事はないのに>と思ったこともあったが、無理な話であろう。せめて若い専門医の交流をはかって、互いの国の温泉入浴法とその効果を研究し、理解を深めるほかに方法はなさそうだ。温泉の国際化とはこうしたカルチャーの違いを埋めてゆくところから始めなければならない手間と時問が掛かる仕事だ。日本に永住している外国人は「慣れる」として、欧州旅行者の受け入れには温泉地は適当でないかも知れない。ただ救いは入浴の習慣のある韓国の人々や、冒険心旺盛な人々が多いアメリカやオーストラリアの人々にはアッピール可能だと思う。いわゆる環太平洋文化圏の人々だ。特に温泉体験が少ない国の人々は、先入観がないだけに指導しやすいだろう。一度入浴すれば「天が裂けたような爽快感が忘れられなくなった」と知人のオーストラリア人が述懐していた。また、国を問わず若者はチャレンジ精神旺盛で、共同浴場などでは万国の名を聞く。日本の伝統文化としての温泉と入浴効果を世界の若者達へ発信してゆくのも面白いだろう。 ![]() 施設としてはあるがままで良いと考える。それが我が国の文化だからだ。ただし日本旅館の使い方と地域のパンフレットは英文、ハングル、中国語の三つぐらいを併記したパンフレットを作るべきだろう。また道路標識は世界共通のローマ字を併記する必要がある。外来旅行者が地図を片手に町を歩けるくらいの手掛かりは提供するべきである。定期観光バスなども先行きは外国人にも対応できる通訳システムを導入することを視野にいれておきたい。ロンドンの定期観光バスには英・仏・独・日のほかスペイン語、イタリア語の6ヶ国語のガイドが可能なシステムが搭載されていて、自分が聞きたい言葉を選べたものだ。これならわざわざ外国人専用のバスを仕立てることもなく、外国人も日本人旅行者と一緒に個人旅行が楽しめて合理的だ。 こうしたテクニックやツールを世界水準に引き上げることで、外国の人々にも個人旅行がしやすい地域として認識されることが必要だ。海外への情報発信をすることよって、伊豆の自然環境と共に国際温泉地としての発展が約束されるのではないかと考えている。 伊豆の旅館に希望するサービスとは いろいろ陳べてきたが、それでは一体、ユーザーは温泉地あるいは温泉旅館に何を望んでいるのだろうか。旅慣れたユーザーたちは、まず値頃感のある宿を探している。しかも団体でもグループでもなく、二人単位への移行がすでに始まった。極論すれば例え日本旅館であっても、一人一室さえ要求される場合が増えてゆくことだろう。エージェント依存、団体主流で操業してきた旅館にとって、既存の企業意識では請けきれない要求である。しかし、日本の住宅事情を考えるとき、ある意味で安定期に達した現在、大方の国民は子供も大人も一人一部屋でプライベート空間を確保した日常生活を送っている。そうした状況の中で他人同志が一部屋に4人も5人も詰め込まれることは異常な状況と言わざるを得ない。近年いくら安価とはいえ団体旅行が復活傾向を見せない原因の一つには、そのあたりにも原因がある。団体旅行は安いけれど、ゆっくり楽しめないからだ。無論、旅館側には旅館の側の言い分はあるだろう。何十年前のエージェントと交わした規約が常識化した「2畳一人」の規格から言えば、10畳や12畳に2人、3人の収容などもってのほかである。しかしそれがユーザー多数の要求ということになれば、買い手あっての商売。再考をしざるを得ないではないか。日常より条件の悪い住空間に耐える苦痛を、金を払って買うという不合理を、いまや客の側が許せないのだ。 旅館の経営者は自分の皮膚感覚でサービス業というものを考える時代になっている。エージェントの要望すべてに唯々諾々と従ってきたツケが今きているといったらお怒りになるだろうか。しかし、ここで自分の宿の目指すべき方向性をしっかり定めるべきである。むろん、2畳1人の収容で収益を上げようという宿があっても否定はしない。そこに経営者が白分で考えたアイデンテイティ(個性といってもいい)があるならば、賛同者は必ず現われるはずだからである。 料理についても同じことが言える。旅という行為が「ハレ」の行為でなくなった現在、旅館料理にも「ご馳走」を要求しない時代になってる。旬の美味しい食材を適量いただくこと。それが現代の旅に求められる料理の大きな条件であり、また、最高の賛沢と考える人が増えているからである。ユーザーがライフサイクルの中で、気分転換や健康管理的な意味合いで行なう定期的な旅が主流となってきている現実を、受け入れ側はもっと真剣に考慮すべきなのだ。無論、時には記念すべき「ハレ」の旅もあるはずで、宴会料理や食べ切れぬ「ご馳走」をまったく否定するものではない。食も泊もTPOで使い分けるのが現代のユーザーである。ただ「ハレ」の旅が少なくなっているという認識を、新たにするべきだといいたい。 「でもウチのお客さんは食べきれないほどの料理を出さないと満足してくれないのです」 という宿側の声をよく聞く。大抵は1泊3万だ4万だという超高級旅館である。それは当たり前のことだ。そんな高額の金を払う旅はその宿泊が「ハレ」の場だからであり、普段とは違った体験をもとめているからである。 しかし、これとて対応を間違えればマイナスにしか作用しないこともある。実際私自身が聞いた話をご披露しよう。あるタクシードライバーが子供達から金婚式のプレゼントに伊豆の温泉旅館の旅を贈られた。1泊4万5000円、二人で9万円の1泊旅行だった。 「一生に一度の賛沢な旅行でした」 と彼は述懐する。部屋も風呂も立派なホテルだった。ところが食事となって齟齬が生じた。部屋係が「次はこれをお出しいたします」と大きな伊勢えびを捧げて現われたのである。ピンとした髭を引っ張るとキュッと鳴いた。「活き造りで食べたいなあ」妻も言った。ところが、 「いえ、これは鬼がら焼きで出させていただきます」言下に部屋係は宣言したという。残念に思ったが仕方がない。次に彼女がもって現われたのが、大きな活きたアワビであった。 「これだけは是非刺身にしてください。こんな立派なアワビ、二度と食べられないかも知れないから」 彼は懇願に近い状態でたのんだそうだ。 「考えても見てください、1泊4万5000円で泊まるなど、我々庶民では一生に何度もあることではないんです」 ところが部屋係は、 「私どもでは〃おどり〃と申しまして、網で焼いてめし上がっていただきます」 ガンとして夫婦の希望を聞くことはなかったそうだ。彼は高田馬場で私を車から降ろすまでのおよそ40分の間、 「あんなひどい宿はありませんでした」 とくり返して嘆いたものである。 泊まる側は4万5000円という宿泊料に対して「特別な待遇」を期待して泊まった。しかし、「高級」で売るその宿では彼らはけして特別な客ではなかった。客の期待と旅館側の認識、相互の錯覚がこうした齟齬を生んだといえる。つまり客の抱いていたイメージを叶えられなかった点、宿側の失点といってよいだろう。 この例をもう少し突っ込んで考えてみたい。基本的に客は宿に注文を出せないという日本旅館のシステム自体に、サービス業として問題点があるとはいえないだろうか。特に料理に関しては、メニューを決めてしまうと、後は一切厨房が対応しない、あるいはできないというシステムに問題がある。確かに何百人もの収容を誇る宿で、いちいち個々の客の要望に応えていったらきりがないことは確かだ。このタクシードライバーの場合、選ぶ宿が間違っていた、といえなくもない。収容力の小さなオーナーシェフの宿を選べばよかったはずだ。しかしそれで問題を片付けてしまえないのがこれからの旅館業の難しさである。 それなら何故、生きているままの海老やアワビを客に見せたのか。どう食べたいかを客に期待させ、問うようなものではないか。すべてマニュアル化された中での接客システムがこうした客と宿の間の齟齬を生んでゆく。 「真のホスピタリティーはマニュアルからは生まれない」 ということをサービス業に携わる者は肝に銘すべきである。日本旅館の特長が「1泊2食付き」のシステムにあり、それが日本の旅文化であるというならば、指摘するまでもなく料理への比重は大きいはずである。しかし、時代の要請として、既存の「お仕着せ料理」に満足しないユーザーが増えている以上、厨房がある程度、客個々の要望に応えられる体制を整備してゆくことが求められるであろう。国民の生活感覚の中で健康管理が大きな関心事となっていることは周知の傾向で、これに加えて高齢化杜会が年々進む時代、料理のアフターサービスという新たな対応が必要となることは明らかだ。そのサービスが不能なら思い切って客が自分の好みで料理を注文できるレストランシステムの導入を考える方が合理的かもしれない。 現況を省みれば、旅館全体ではないにしても、厨房と他のスタッフのコミュニケーションが十分に計れない宿がないとはいえず、そうした例を見るにつけ、厨房スタッフ自身が宿のホスピタリティーの大きな担い手であることを自覚し、郷土色豊かな美味しい食材の開拓と、美味しい調理法の工夫で、その宿ならではの料理を生みだすという基本的な姿勢にもう一度たちかえることが必要だと考えている。 余計なことではあるが、伊豆に限らず厨房の聖域意識をなくすことが日本旅館の近代化につながることだと考えている。 |