I はじめに
入浴は一日の汗と汚れを洗い流し、四肢末端にまでいたる血行を促がして体内組織への酸素や栄養分の供給を増加させる。一方で組織に蓄積した炭酸ガスや疲労物質を速やかに運び去ってくれる。不要物質の排出、代謝の促進は体内組織をリフレッシュさせる。家庭入浴、温泉入浴を問わず、これが入浴の本質的な作用といえよう。ところで温泉は一般の水道水に較べて、温泉に溶けている化学成分によってさらに高い保温効果を発揮するが、さらに温泉を取り巻く温泉地に潜在する保養効果は自律神経系、内分泌系を介してさらに人々に疲労回復、脱ストレス効果、体内リズムの修復・正常化をもたらしてくれる。しかし一方で、入浴・温泉浴の不適切な利用はとくに高齢者を中心に、予期しない事故をもたらすことも知られている。
今から20年以上も前に温泉地の病院に勤務していた著者はこのことを当時から既に実感していた。温泉客のとくに高齢者を中心に急性心筋梗塞や脳梗塞など温泉地では当時殆ど報告されていなかった心臓や血管を中心に発症する心脈管系疾患の急性発症が少なくないことに気づいた1)。温泉は勿論のこと、医療関係者さえ当時は関心は零に近かった。最近ではこのような事例が一般家庭の浴室で、あるいは温泉地でも少なくないことが医学的にも、社会的にも指摘、注目されるようになって関心がようやくもたれるようになった。しかし温泉地における入浴事故例は以前になかったわけではなく、温泉地では“湯あたり”としてよく知られている代表的な温泉副作用が知られてきた。温泉入浴を始めて2,3日すると全身倦怠、食欲不振、微熱といった不定愁訴がみられてくる症候群である。また泉質にもよるが皮膚の発疹も少なからず知られている温泉副作用といえよう。いずれにしろ温泉浴を中止することによってこれらの症状は速やかに消失して後遺症を残すようなことはなく、医学的に大きな問題とはならないのが通例である。最近では“湯あたり”のような事例は余り多くなくなったかわりに、上記のような心脈管系疾患やその他の種々のものがみられるようになった。これには湯治型の温泉地に長く滞在する人が少なくなったことがその大きな原因と思われる。この脳梗塞とか心筋梗塞といった疾患は“湯あたり”とは違って死亡率も高く、たとえ死を免れても後遺症が長く続いて日常生活行動(ADL)を大きく歪める恐れが強く、大変予後の悪い疾患である。全ての温泉に共通する特質ともいえる保温作用は体には健康面で大きなプラス効果をもたらすが、しかし一方でこの期待されるべき温泉作用は利用法次第では水道水を用いた一般の家庭入浴より発症頻度を高める恐れもある。事実、一般家庭入浴より温泉地における発症頻度は統計的には明らかに高いといった調査結果2)も報告されている。これには温泉浴以外に温泉地という非日常的な環境で過ごすといういくつかの要因も併せて考察しなければならないが、温泉自体の性状から考えてこの指摘は決して偶然起きてくる結果ではないと著者は思っている。いずれにしろ、高齢者人口の増加が入浴事故の急増の背景にあることは間違いない。家庭入浴の事故急増には、各家庭での入浴が普及し、また救急医療体制が整備されて入浴事故に関する情報が容易に、しかも迅速に知られるようになったことも見逃せない要因と思われる。
今後保養のための温泉利用はますます盛んになることが予想され、それに伴って高齢者を中心とする心脈管系疾患を始めとする温泉地における事故増加が懸念されるが、しかしこれら疾患の発症は適切な温泉利用、温泉地滞在によって予防可能であることも事実である。
本章では温泉地ではどんな疾患が多いか、そしてまたこれら疾患予防にどんな注意が大事か、といったことを中心に具体的に述べることとする。
II 入浴・温泉浴事故にどんな疾患が多いか
草津温泉滞在中に急性疾患を発症し、旧群馬大学草津分院内科に緊急入院した湯治客407例の疾患別分類(図1)を図示する。図で明らかなように、全国各地の温泉地で共通してみられる消化器系、呼吸器系疾患がここでも年齢を問わず同様に多くみられるが、脳血管障害(脳梗塞、脳出血、くも膜下出血、一過性脳虚血など)や虚血性心疾患(心筋梗塞、狭心症など)といった、心臓や脳の動脈の血流が一時的に、あるいは持続的にとまってしまって発症する疾患が少なくない点に注目する必要がある。
図1
この図で年齢構成をみると、60歳以上例は全体の59%を占めていて、そのうちで最も多かったのは脳血管障害(脳梗塞、一過性脳虚血)15.0%、ついで虚血性心疾患(急性心筋梗塞、狭心症)9.3%、不整脈4.9%の順となっていて、高齢者ではこの心脳の血管性疾患が圧倒的に多いことが分かる。
温泉地をもつ43市町村における同様の調査成績3)(図2)がある。これによると高齢者を中心に脳血管障害や一過性脳虚血、虚血性心疾患や不整脈などが多いことが同じように指摘されていて、こういったことは一温泉地に限った傾向ではないことを示唆している。ところでこの図では、卒倒が70歳以上例に多くみられているが、これらの対象では一時的に意識レベルの低下が起きた可能性が推定され、こういった対象も脳循環障害によることが考えられる。
一方、温泉とは別に、一般浴室内死亡例を対象とした法医学的検案事例の報告がある。これによると、虚血性心疾患、脳内出血、溺死がその主な死因として指摘されている。溺死については直接の引き金となった疾病はなにか、ということになる。
図2
と議論も多いようである。というのも解剖では形態変化としては捉えられない病態、例えば熱中症のような病態が入浴中の意識障害発作の原因ではないか、と推定する考えもある。ところで病院に緊急入院してくる温泉浴客の心・脳関連疾患例では入浴中あるいは出浴直後の死亡例よりも出浴後から翌朝にかけて発症したと考えられる例が少なくない。温泉浴と血栓性疾患(温泉浴後24時間以内に発症したと考えられる脳梗塞27例、心筋梗塞15例)との時間的関係を検討した報告4)では、浴後1時間以内の発症が最も多く、3時間以上経過して発症した脳梗塞例も少なくない点からみると、これら血栓性疾患例の多くが入浴中よりもむしろ出浴後に発症しているのではないかと推定することができる。
このように“いわゆる健康高齢者”が家庭入浴、温泉入浴に際して予想もしなかった急性疾患を発症する例が決して少なくはないことをいくつかの報告集を提示しながら指摘したが、入浴介護サービス(施設、訪問、自宅)を受けているような“ねたきり状態”で自力では入浴できない被介護者でも入浴事故がみられるようである。ここではこれに関連したアンケート調査成績(小池和子氏私信5)(図3)を紹介する。
図3
この成績によると、外傷を含む入浴事故発生例(40例、うち60歳以上が37例)のうち、入浴中の発生例は40%あり、また内科系疾患発症は死亡1例を含む10例であったと報告されている。このような点からみて、慎重な入浴介護下でもトラブルは起こりうることが考えられる。日常生活上、身体的に起居の不自由な人、あるいは認知障害のある人など、介護を要する人達の温泉保養は今後大いに期待される面があるが、このような人達が容易に受け入れられるような態勢づくりが重要と思われる。こういった入浴介護システムが確立されていくうえで、このような事例報告は貴重な資料となる。今後の積み重ねが期待される。
急性疾患発症に関連してレジオネラ属菌による感染症に触れる必要がある。今、レジオネラ属菌による感染症、とくにそのうちでもそれによる肺炎が水関連施設、老人ホームとうにおける発症で話題となっている。温泉の集中管理、循環方式による給湯システムの普及はこれまで温泉では考えられなかったレジオネラ属菌の温泉への混入、増殖を招き、それによる発症が引き起こされる事態となった。温泉の性情を失った温水中でこれらの菌の増殖が起きても不思議ではない。この菌で汚染された温水は呼吸器系を介して体内に侵入するが、免疫能の低い高齢者や乳幼児では発症につながりやすい特徴がある。このため利用者は以下の点にとくに留意する必要がある。
1.循環濾過システムの浴水では噴霧状となる水の利用の仕方をしない
2.このような浴水の誤嚥をしない
3.高齢者、乳幼児はこのような施設利用時には以上の点にとくに注意する
4.施設利用後に発熱し、抗生物質で3,4日以上改善しない呼吸器系疾患では本疾患を疑い、速やかに特殊検査による診断を受ける。治療の遅れさえなければ特効薬で治癒できる感染症である。
III 入浴・温泉浴でみられる心・脈管系疾患の発症はどのようにして起こるのか
以上のことから入浴・温泉浴は利用法次第では体にプラスにもマイナスにも働く諸刃の剣であるといえよう。とくに利用者の多くが動脈硬化症の多かれ少なかれ潜在している高齢者では、入浴効果がときには心脈管系を中心に異常反応を誘発しやすい点に留意する必要がある。
入浴中から出浴直後の突然の意識障害・消失の基礎病態には血圧の急変、心調律異常、あるいは熱中症のような体温、体液、電解質の調節異常といった入浴によって引き起こされる即時反応が推定されるが、出浴後から翌朝にかけて起こる血栓性疾患の発現には入浴による血圧や血液粘度の日内変動の変化といった入浴による遅発反応の発現が大きな要因となっていることが推定される。
高齢者では、種々の原因で皮膚の温度感覚の低下があり、高温浴を好むようになる。高温浴による温熱ストレスは交感神経の優位を招いて心拍数を増加させ、血管緊張を高め、結果的には血圧を上昇させることとなる。高温浴(42℃、10分)はまた、発汗を促して急速な血液濃縮を招き、浴後30分にピークに達する一過性血液粘度上昇を起し、動脈硬化性血管内では急激な血流障害をもたらす。高齢者では腎の尿濃縮能低下によって比重の低い尿が多量につくられて排泄されやすく、一方では体内水分量は一般に減少する。このような老化に伴う体の変化は入浴によって起こる発汗にさらに利尿作用も加わって、体内の急激な減少、脱水が起こりやすくなるとくちょうがある。脱水が起これば血液はすぐ濃縮して血液粘度が上昇し血流が妨げられるようになる。これはひいては血栓形成の引き金となる危険をはらんでいる。血液凝固発現の引金となる血小板は高温ストレスによって活性化され、凝固促進に働く。また高温浴は線維素溶解能を弱めて血栓形成を促す方向にも働く。このように血栓性疾患発症には、動脈硬化病変に、入浴による血液性状の変化が加わることが要因の一つとして推定される6)。
長期臥床患者でも入浴願望は強く、その心身へもプラス効果は予想以上のものがある。前述したように、寝たきり高齢者など、介助を要する人達の温泉利用も当然考えねばならないことであるが、この場合、温泉利用者に対して健康者以上の配慮が必要となることはいうまでもない7)。
IV 心脈管系トラブルを防ぐための安全入浴とは
入浴にともなう身体的変化のうち、とくに血圧の変動は高齢者の場合には心脳血管性障害の最も大きな発症要因となる。そのため血圧の変動を極力抑制することは極めて大切とこととなる。
入出浴に伴う一連の血圧変動(図4)を示す。入浴時の血圧上昇は高温浴ほど、また出浴時の血圧低下は急激な出浴ほど強く起こる。また寒冷期
図4 入浴に伴う平均血圧の変化
では脱衣室の室温の低いほど血圧上昇も起こりやすい。寒暖差によるストレスが大きい寒冷期には高齢者の入浴時のトラブルが多いことを考慮してこれら血圧変動の要因に注意する必要がある。とくに高血圧症のある人では一層この傾向が強いので入、出浴時の一連の経過のなかで極力、血圧の久変動を抑える注意が重要である。
血液粘度の上昇もとくに高齢者では注意しなければいけない点である(図5)。心脳血管障害発症にこの血液粘度上昇が大きな発症要因となるからである。
図5 温泉浴に伴う血液粘度の変化―浴温度や水位によって大きな違いがある
成人では一般に入浴(40度、10分全身浴)時に、発汗によって水分約500ml、さらに電解質も失われることが知られている。水分喪失は血液粘度上昇をもたらし、その上昇は浴後90分位まで持続する。図示されているようにこの上昇程度は入浴条件によって大きな違いがあるので注意したい。一般に体液中の電解質(ナトリウム、カリウム、カルシウム、クロールなど)はつねに一定濃度で血中に維持されていないと神経、心、筋の働きが乱れて生命活動に直接危険を及ぼすきわめて重要な働きをもつ物質である。その意味でこれら電解質の異常は予め予防するのが望ましく、その兆候があれば速やかに是正する必要がある。具体的には浴前後に電解質を含むイオン飲料、計500ミリリッター位の摂取を心掛けるべきである8)。
V 水分補給は日常生活でも重要
温泉入浴という脱水を促進する要因がなくても人の体からはとくに夜間睡眠中に発汗や不感蒸泄によって水分が失われている。その結果、血液粘度は早朝から午前にかけて急上昇する(図6、飲用なし例)。このような血液粘度上昇はとくに動脈硬化の進展した高齢者では脳や心臓の血行を障害し、ひいては血栓形成の引き金となる危険をもたらす。事実この時間帯には脳梗塞や心筋梗塞が発症し易いことが知られ、魔の時間帯とも呼ばれている。このような危険を少しでも少なくするために就寝前や深夜、あるいは早朝覚醒時に水分摂取を行うことは早朝の血液粘度の上昇を抑制して血液をサラサラにする上で極めて有効である(図6、イオン飲料摂取例)。イオン飲料は電解質補給以外にも水分の腸管からの吸収を促し、かつ長時間血中に水分が維持されるように考慮されている飲料である。温泉入浴が就寝前にあればこの夜間睡眠中の脱水は一層促進されることが考えられ、このようなイオン飲料の摂取は温泉入浴時にはとりわけ大切なこととなる。
図6
前述したように、一般家庭入浴よりも温泉浴で入浴事故の発症頻度が高いという事実2)があるとすれば温泉浴による強い脱水もその一因となっている可能性が高い。そんな意味でイオン飲料摂取は温泉浴後の脱水予防には必須であり一層心がけたいものである。最近では温泉の脱衣室にはイオン飲料の自販機が設置されているところが多くなっている。とくに渇中枢機能の低下する高齢者では、たとえ口渇感を覚えなくても習慣として浴前後にイオン飲料を摂取することをお勧めしたい。
以上温泉保養地に滞在中、とくに高齢者で注意したい事項をまとめて表示する(表1)。
表1 温泉保養地滞在中の注意点
その他でよく問題となるのは温泉浴の回数である。温泉保養では一週間以上の温泉地滞在が望ましいということになればなお更である。一般に温泉浴は体力を消耗し、体調を崩す恐れがあり、とくに高齢者の場合には無視できないことである。古くから“湯あたり”といわれる温泉副作用のあることは既に触れたが、こんな点を考えて、温泉入浴は一日二回(午前、午後の各一回)以内にして温泉の保養効果を享受するのが賢明と思われる。
VI おわりに
温泉地滞在では誰もが非日常的な生活を強いられる。これが適切な刺激であればよいが、滞在中に過剰なストレスとなり、疲労蓄積がマイナス効果をもたらし、体調を狂わして思わぬ発症を招き入れることとなる。温泉地にきたから普段できないことを思いっきりして脱ストレスを発散する、などといった発想はリラクセーションどころか体内リズムを狂わせ、脱健康、ホメオスターシスの破綻をもたらして発症を招く危険さえある。表1に示したように、利用者が普段の生活パターンからあまりかけ離れないで温泉地に滞在し、いかに日内リズムを回復させうるか、一方で受け入れ側が保養のための条件にいかほど応じられるか、温泉保養の効果はこんなところにあるのではないかと思っている。
なお温泉療法に関する相談は全国の温泉地に在住する日本温泉気候物理医学会認定温泉療法医が応じてくれるはずである。温泉療法医会事務局は日本温泉気候物理医学会内(03-3517-1180)にある。
参考文献
1)白倉卓夫ほか:草津温泉の医学、草津温泉、白倉卓夫(編)、草津町温泉研究会、143頁、1997年
2)奈良昌冶ほか:高齢者における自宅入浴事故死と温泉入浴事故死の統計的検討、健康医学11:16、1996
3)大月邦夫:温泉入浴者の急性疾患発症調査、群馬県衛生環境研究所年報No.26:37、1994
4)田村耕成ほか:温泉浴後に発症した急性心筋梗塞ならびに脳梗塞の検討、群馬医学No.64:41、1995
5)小池和子氏からの私信
6)白倉卓夫:寒冷期における中高年者の入浴中の事故、血液の面から、日本医事新報No.3996:6、2000
7)白倉卓夫:入浴の生理と健康、訪問入浴介護の理論と実践、一番ヶ瀬康子(監)、一橋出版、33頁、2000年
8)白倉卓夫:積極的な水分補給でみずみずしく健康に、老健13:72、2002
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