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温泉保養地環境

歴史から見る温泉保養地の変遷(日本編)

井上 昌知
NPO法人健康と温泉フォーラム 常任理事


1 はじめに

 本講座について最初にお断りしておきたい二つのことがある。

 第一は温泉保養地とは何かを定義することになると、現在でも多くの意見があり、定説があるわけではない。まして、千年以上も古い時代に利用されていた温泉を現在の温泉保養地と同じ範疇で捕らえるのはかなり無理があろう。本講座の題名は、今の時代の温泉保養地が、どのような変遷を辿って今日の姿になっているのかをみようとするものである。日本の多くの温泉地は、昭和の高度経済成長期に保養地としてよりも歓楽地として使われた温泉地が多く、温泉保養地ということばは、歓楽的な温泉地と区別する意味で使われている面がある。しかし、このような歓楽的な利用もひとつの温泉地の利用形態であり歴史の一つの局面であるとともに古代の信仰と結びついた温泉の利用のされ方も変遷の一つの過程と観ることもできる。この意味で、本講座の表題を理解していただきたい。

 第二は、時代区分の問題である。歴史は常につながっておりこれをどのように区分するかは歴史学そのものであるといわれている。本講座では、便宜上、五つの時代区分を試みた。それは、温泉の利用のされ方の大きな特徴を標準にしたからである。

(1) 古代は、温泉地の数も少なく、旅が許される天皇、貴族など一部の階層の利用と、温泉地の地元住民の原始的な利用が、古事記、日本書紀、万葉集などの古い記録から推測できる時代である。また、信仰と結びついた利用が主体であり、政治的、社会的な体制との関係が明確でない時代という点で一つの区切りができる。

(2) 平安時代から安土桃山時代を中世として一つの区切りとしたが、平安時代に延喜式により、神社との関係で全国の各温泉地が中央政治の体制の中に取り込まれたことが確認できることと、その後に続く江戸時代がそれまでの温泉利用と違う大きな特徴があると考えられるため、ここで一つの区切りができるからである。中世としてまとめた時代の中にも、時代によりさらに細かく区分することもできようが、大きな特徴で見た場合、一つのまとまった時代として区分できる。

(3) 江戸時代は湯治の全盛時代である。医学的、化学的な研究がそれまでの時代とは違う著しい進歩を見せたこと及び温泉町の形成と温泉利用のルール化が定着した点を一つの特徴とした区分が可能である。

(4) 明治時代から昭和20年代までは西洋からの文明により近代化が始まった時代であり当然温泉の使われ方も一つの時代として区分できる。ドイツの温泉医学者をはじめ多くの外国人の近代的な科学の視点で温泉が見直され、昭和になると国立大学に温泉研究所が設立されるなど西洋医学による温泉の研究が行われたこと、及び交通手段の著しい発達によりそれまでの時代と旅行の形態が大きく変わり、それに伴う温泉の利用のされ方が一つの時代を形成した。また、工業化の進展により温泉の利用が今日のように非常に多様化する基礎をつくった時代である。

(5) 太平洋戦争の終結当時の食糧難の時代を何とか切り抜け、昭和30年代に入ると経済の高度成長が始まり、この影響を受けて温泉地はそれまでの情況とは大きく変化しひとつの新しい時代へと入っていった。昭和30年代から40年代はマスツーリズムの時代でありその後のバブルの崩壊によって価格破壊、国内観光の空洞化といわれる時代を過ぎてやっと保養的な温泉地が増えるようになり、今日の多様化の時代となった。今後どのように定着するかはまだ見えていないが、それ以前のように大部分の温泉地がほぼ似たようなスタイルで利用されることはなく、個性をもった温泉地が数多く出現するのであろう。その意味で一つの特徴をもった時代といえよう。

2 各時代の温泉利用

(1)古代の温泉地
 この時代の温泉利用は,古事記、日本書記、各地の風土記、万葉集などから窺い知ることができる。

 古事記は、和銅5年(712年)に作成された神武から推古天皇までの時代をまとめた歴史書である。元明天皇の詔により稗田阿礼の記憶などを太安万侶が筆録した書である。これには、温泉に関する直接的な記録はないが、温泉に関係の深い禊について次のように述べられている。「伊邪那美命の神去りましたるを慕われて伊邪那岐命は、黄泉の国に到りたもうたが、浅ましい死の御容を見られるやのがれ帰られて、吾は、伊那志許米志許米岐穢き国に至りてあった。故に、吾は大御身の禊せなと詔まうて、筑紫日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして御身を滌ぎ祓はせたまうた」。 これは、禊ぎに関する最も古い記録とされているものであるが、古代の日本の風俗、習慣のなかに水で祓い清めるという行為がすでに存在していたことを示している。この禊ぎには海水が使われることが多かったようであるが、温泉が使われたことは十分に考えられる。

 日本書紀は、養老4年(720年)に舎人親王を主任にして撰修された官撰の史書である。神代の巻きから持統天皇の代までの編年体の歴史が40年かけて30巻が編集されている。この日本書紀巻23に舒明天皇が舒明3年(631年)に摂津の国有間温湯(現在の有馬温泉)に行幸されたとの記録があり、これが天皇の温泉地行幸の第1号とされている。

白浜町資料


 9月から85日間の滞在とされており、今からみればかなりの長期滞在型の温泉利用であるが、長時間かけての旅が必要な当時としては、これがあたりまえであったのかもしれない。さらに日本書紀巻26には孝徳天皇の皇子有間皇子が斎明3年(657年)牟婁温湯(現在の白浜町湯崎温泉)に病気治療に出かけた記録があり、中大兄皇子との対立により同地で処刑された話は、有馬王子の悲劇として有名である。そのほかにも、孝明天皇が大化3年(647年)有馬温泉に、斎明天皇が、斎明4年に牟婁温湯に3ヶ月ぐらい行幸された記録がある。天皇が都を離れて3ヶ月もの間温泉地に旅をすることは当時としては政治的にも重要な出来事であり、当然、官撰の史書である日本書紀に記録されるべきことであろうし、また、当時における温泉の利用がそれほど重視されていたことが窺える。

 風土記は、和銅6年(713年)勅命により各地から報告された地方の風俗、文化、産物、歴史などを綴った公文書であり、現存するものは、常陸、播磨国、出雲国、肥前国、豊後国の5国のものである。しかし、これ以外の風土記も「釈日本紀」や「万葉集注釈」など種々の文献に引用され、逸文として残されている。その中に、温泉に関する記述が記録されている。その代表的なものが天平5年(733年)の出雲国風土記であり次のように記されている。「すなわち川の辺に出で湯ある所、海陸を兼ねたり。よりて男も女も老いたるも少きも、或いは道路に駱駅ひ、或いは海中を洲に沿ひて、日に集ひ市を成し、うす紛りに燕楽す。一たび濯げばすなわち形容端正しく、再び沐みすればすなわち万の病悉く除ゆ。古より今に至るまで、験を得ずということなし。かれ俗の人神の湯といえり。」これを訳せば、「川(玉造川)のほとりに温泉が出ている。いで湯のあるところは、海と陸の風光を兼ね備えている。それで男も女も、老いも若きも道路をそぞろに歩いてひきもきらず、あるいは海洲に沿って日毎に集まり市をつくって大いに飲み食いをして楽しみ宴をしている。一度湯で身体をすすぐと姿、形が美しく端正になり、再び入浴すると、すなわちどんな病でも悉く癒ってしまう。古から今に至るまで効能のしるしを得ないことはない。これによって世の人は神の湯といっている。」となる。これは、現在の玉造温泉の様子を述べたものである。また、伊予国風土記には、推古4年に聖徳太子が僧恵聡、葛城臣と共に伊予の湯(現在の道後温泉)に浴し、碑(伊予温泉碑)をたてたという記録がある。

聖徳太子の松山來浴(松山市資料)


また、伊豆国風土記には、天孫が未だ日本列島に降臨しない前に、大己貴命と少彦名命が諸国の民の若死にするのを憂いて、呪術と薬と温泉の制を定めたということが記されており、この関係で、日本の古い温泉で歴史のある土地には湯神社、湯泉神社、温泉神社などがあり、このいずれもが大己貴命と少彦名命を祭神としている。このほか、豊後国風土記及び肥前国風土記にも温泉に関する記述があるほか逸文としては摂津国風土記や筑紫国風土記などにも温泉に関する記述が見られる。

 万葉集は、日本で最初につくられた歌集で、全20巻、歌数約4500首、成立時期は各巻によって異なっているが、8世紀の終わり頃にはできあがっていたと考えられている。作者層は、天皇、貴族、官人がほとんどであるがそれ以外の東国人、防人、僧侶、遊女など多彩である。万葉集にでてくる温泉地としては、現在の白浜温泉、道後温泉、二日市温泉、有馬温泉、伊豆山温泉、湯河原温泉である。例えば、万葉集・巻三に載せられている、歌聖といわれている山部赤人が伊予の湯について詠んだ長歌は次のとおりである。

「皇神神の神の御言の 敷きます国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思はしし 三湯の上の 樹村を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 音も更らず とおき世に 神さびゆかむ 行幸処」

反歌 「百式紀の 大宮人の 飽田津に 船乗りしけむ 年の知らなく」山部赤人は、自然と歴史の両方の面からこの道後温泉を賛美している。

 光明皇后(701年〜760年)の施浴についての話は有名である。「東大寺縁起」に記録があるが伝説的には、皇后は大和の国の国分尼寺法華寺の浴堂で施浴を催し、みずから千人の浴人の垢を落とすことを誓った。最後の一人がライ病患者であったが、その身体の膿を吸い出した。このとき、たちまち浴場内に紫雲がたなびき、そのライ病患者は金色の仏となった。皇后が合掌礼拝するうちに雲にまぎれて消えたというのである。

 このような記録から見るとき、この時代における温泉の利用は、宗教との結びつきが非常に強く、神の湯として崇められ、当時、人の身体を清めるための重要な方法である禊ぎに使われたと考えられている。また、当時の病に対する治療の方法は、呪術と薬草と温泉でありこれが同じ次元で取り扱われていた。つまり、医学が発達していない当時は、貴重な治療の手段として信仰に結びついた温泉利用がなされていたのである。しかし、風土記の記録からみられるように医療としてのみならず楽しみの手段としても利用されており現代の温泉利用の原点がここに見られる。どの程度の層が利用していたかは明らかではないが、温泉地の地元では、かなり一般的な利用が行われていたものと考えられる。

(2)中世の温泉地
 平安時代(794年〜1192年)になると、当時の文献に温泉に関する記録も増えてくる。延喜式は、平安時代中期の延長5年(927年)、醍醐天皇の勅命によって編集が始まった法令集であり、50巻約3300条に及ぶ大部なものであり、施行されたのは、康保4年(967年)である。この延喜式巻9及び10が「神名帳」であり、全国の神社が列記されているがこの中に現在の有馬温泉、道後温泉、鳴子温泉、常磐湯本温泉、玉造温泉など有名な温泉地の温泉神社が記載されている。これらの記録から、当時の温泉地が確認できる。また、清少納言が書いた「枕草子」(1000年)には「湯は七久里の湯(現在の伊勢の榊原温泉)、有馬の湯、玉つくりの湯」とあり、また、紫式部の「源氏物語」空蝉の巻には、「伊予の湯桁もたどたどしかるまじうみゆ」とあり当時における温泉への関心の高さを示している。また、平安後期の歴史書である「扶桑略記」に、天歴7年(953年)、権少僧都明珍が伊予国温泉に湯治のため休暇を願い出たとの記録があるほか別の人物が社寺詣での帰途に温泉地に立ち寄った記録が散見され、当時の温泉利用の状況を知ることができる。本朝文粋は、平安中期200年間の14巻に及ぶ漢詩文集であるが、この第6巻に武蔵温泉が、また、朝野郡載は1116年に成立した、平安時代の詩文、宣命、詔勅などを分類した全30巻の書であるが、この20巻に西海之温泉が、それぞれ湯療のためにもちいられたという記録がある。平安末期の藤原頼長の日記である台記は、1136年から1155年までの記録であるが、これにも「始湯治、毎日二度 禦風」という文が書かれている。しかし、ここでいう「湯治」は、潮湯に入浴することで温泉に入浴することではないと考えられる。温泉を対象として「湯治」とことばが使われたのは、室町中期の長禄3年5月22日(1459年)湯田温泉入浴に関する大内家禁制文書が最初とされている。これによれば、「夜中に湯田の湯に入ること」が禁じられており、その除外例として「ただし湯治の人ならびに女人同農人等は除く」となっている。ここでいう湯治の人とは、病気を治す目的で温泉浴をする人を指しており、温泉医学者西川義方博士によれば、温泉を対象として湯治ということばが使われたのはこれが最初であるとされている。

 鎌倉・南北朝時代(1192〜1392年)の文化は宋の影響が強く、入浴や温泉浴については仏教との関係が深かった時代である。東大寺には大湯屋が造られ盛んに施浴がおこなわれた時代でもあり、一遍上人が別府の鉄輪地獄を封じて日本随一の蒸湯を開いたのもこの頃である。またこの時代には湯治(真湯、水浴、薬浴、温泉浴等)と灸治とが平安時代から続いておこなわれ、瘡腫に水を灌いで冷浴をし、また風病の治療に水浴する方法が盛んにおこなわれた。この頃病僧は延寿堂(病僧の療養所)にて療養するか、または請暇して療養するかのどちらかであったが、後者の場合には温泉地へ出かけて湯治をする例がみられる。例えば日蓮聖人が常陸の湯へ、義堂周信が熱海の湯へ、聞了房が瘡病のため箱根湯へ三・七日の湯治に出かけている。この時代すでに湯治は三・七日の二十一日間が良いとされていたようである。

 南北朝時代、建武三年(1336)後醍醐天皇の側近が八瀬の竃風呂を利用した古記録もある。

 室町時代(1392〜1573年)から明治時代にかけては国風の全盛時代であった。室町中期以降は公卿、武家の間に攝待風呂が流行し、浴槽の周囲に山水、滝などをつくり客を招いて酒宴、遊興の場とした。ヨーロッパにおいても13世紀ごろから同様なことが行われ、その時期が一致している点興味深い。医談鈔の中でも上湯、洗足湯、行水湯、湯治、水湯、水風呂、湯屋、郷湯、郷風呂、湯行事、湯始、水舟、薬湯、薬風呂、功徳湯、湯錢など湯治に関係ある言葉が多くみられる。湯田温泉の禁制壁書に示されるように温泉浴を対象として湯治という言葉が用いられるようになり、それ以降湯治すなわち温泉浴が普及していく。

 安土・桃山時代(1574〜1600年)は、戦いの多い時代であるとともに江戸時代への移行の時期であり温泉の利用にもその特徴が現れているのでその点を項にし、二つに分けて説明する。

1) 戦陣医療に用いられた温泉
 この時代は戦国の世であり、各地の温泉で戦傷者の治療のため温泉が盛んに利用されている。有名な信玄の「かくし湯」、そのほか全国各地の温泉に武将達の入湯記録が数多く残されている。特に武田信玄は、戦陣医療に温泉を用いたことで著名である。甲州の増富、下部、積翠寺、川浦などの温泉は信玄の隠し湯であったという伝説をもっている。塩山市の恵林寺の宝物の中に次のような下知状が残されている。

「河浦湯屋造営本願之畢、如先々可令勧進之旨、
   自寺中評定衆可有下知者也、依如件
    永禄四辛酉   龍朱印
     恵林寺」

 意訳すると河浦に湯小屋を造営する本願のこと、前々のように寄付を募らせることを寺中から評定衆の人達に下知あるべしというのである。信玄はこの湯を傷病兵の治療に用いたものであろう。

 また上州草津の旧家黒岩恒氏の所蔵の古文書に、

「自来六月朔日、至于九月朔日、草津湯治之貴賤、
   一切停止之畢、近辺民依于御訴証、申如此被仰出候者也、仍如件
    永禄十年丁卯
     五月四日  龍朱印      跡部大炊助
                 三原衆 奉之」

とあって、信玄が六月一日から九月一日まで草津湯治の者貴賤一切湯治を停止する事を近辺の民の訴えによって仰せられたものであるというのである。

 おそらく傷兵の温泉治療のために一般の湯治を禁止し、三原衆の土豪集団や武田軍団の為に利用させたものであろう。

 上州草津の湯は瘡の湯として天下に著名であった。

 金瘡、外瘡、打撲症は戦陣のつきものである。戦国の武将たちはこぞってこの温泉を医療に用い、二百人、三百人という集団で湯治を試みている。

 しかしこの湯治も平穏に行われたわけではない。上州太田金山城主横瀬成繁は三百人の兵をひきつれて草津湯治を行なっていたが、その留守中に弟明純に城を奪われているし、上州国峰城主小幡信貞も草津湯治中、一族の図書介に城を乗っとられている。

 こういうわけだから、湯治は安全に行われねばならない。「信玄の隠し湯」とは敵にさとられない必要があったからであろう。

 文禄四年、豊臣秀吉も草津湯治を計画したことが『浅野家文書』の中に残されている。秀吉は大がかりな警護の陣を布いて湯治を行おうとしたが、この計画は豊臣秀次に謀反の疑いで突然中止になっている。

 このように、草津湯治は戦国武将の垂涎の的であった。

また、参考までに述べれば、天正・慶長時代の風呂は戸棚式の蒸風呂であり、釜は浴室の外にあり熱された蒸気は木管で浴室に導かれ、浴室のすのこの床から導入された。豊臣秀吉のつくった蒸風呂(黄鶴台)は現在でも西本願寺に保存されている。東寺にも蒸風呂が残されているが、これらは日本式蒸風呂である。石を焼いて水を注いで蒸気をつくる瀬戸内海の石風呂やロシア風呂とは異るものである。

2) 温泉町の形成
 上州伊香保の湯は、天正四年(1576)武田勝頼に仕えた木暮下総守裕利によって実施された。天正四年といえば武田勝頼が長篠の戦でその大半の武将を失った年の翌年である。

 祐利は、源泉を840メートルも引湯し、榛名山の北斜面に石段を配し、これを中心として七氏に町割りし、一戸一戸に滝を配した浴場を作らせている。

 当時としては異色のニュータウンであった伊香保温泉の施行者は、二百石の武士である。木暮祐利とその率いる騎馬六騎を合わせた七氏、足軽三十人の軍団であった。これらは地侍集団で普段は温泉宿を経営し、農業も営み、いざ合戦となると一族を率いて戦場に赴いた。

 草津温泉は鎌倉時代からこの地方を領有していた湯本氏の支配するところであった。湯本氏は江戸初期は沼田藩の家老を務め、八百石の士分であった。騎馬十騎鉄卒百人の軍団をもった。草津温泉の経営者は湯本氏幕下の地侍集団であった。

 山中温泉も草創十二氏によって鎌倉時代より引き継がれ、戦国時代は、相継ぐ領主の交替をたくみに生きた地侍集団であった。

(3)江戸時代の温泉地
1) 江戸時代の温泉町と温泉療法
 江戸時代に入って、生産が増大し、城下町が繁栄し、庶民の経済が充実してくるのに比例して、温泉町が繁栄してきた。参勤交替制が実施され、諸国に宿駅が発達し、旅が盛んになると、温泉は領内の人々の利用の為だけでなく、他領からも湯治客が入ってくるようになった。まず温泉町の都市構造の中核は源泉である。そして源泉の上か、すぐ近くにある共同浴場である。この共同浴場を囲んで湯宿が発達し、小高い丘の上に、温泉薬師か温泉神社がある。湯宿の間には料理屋、酒屋、物煮売、貸本屋、吹矢・楊弓の店などがある。山あいの谷に湧く湯、川辺に湧く湯、海辺に湧く湯では温泉町の形は異なるが、構成する要素は同じである。

 この中で源泉を囲んだ中央広場のある温泉町がある。上州草津の湯、加州山中の湯、摂州有馬の湯が代表的なものである。

 草津温泉は谷の中央に毎分5,000リットルというぼう大な量の温泉が湧き溢れて滝をなして流れ落ちている。この源泉を中心として一大中央広場を構成し、その周りに湯宿が立ち並んでいる。

現在の草津の湯畑(草津町資料)


また山中温泉は源泉が毎分約109リットルという少ない量の湯を「湯ざや」と呼ばれる共同浴場に引き込み、ここを中心として広場を構成させ、有馬温泉は一の湯、二の湯を中心としている。

およそ江戸時代のわが国に、中央広場のある都市は温泉町を除いてはない。城下町にしても、宿場町にしても、門前町にしても市民が集まるという場がない。しかし温泉町は共同浴場に人が集まり、買物に人が集まり、また神社仏閣に人が集まる都市である。また、名所に人が集まり、娯楽場に人が集まる。そして、集まるのは湯治という共通の目的をもった人々である。ここでは武士は大小を宿の帳場に預けることになっていて、帰る時以外は出して用いることがない。武士の特権はここではうすい。道後温泉のように武士や僧侶の湯舟を区別しているところもあるが、たいがいは武士も町人も同じ湯に入るところが多い。ここでは身分がものをいえず、金がものをいう社会であり、江戸時代の封建社会の中にあっては異端な都市であった。
 上州草津温泉はわが国最大の温泉町であったが、幕末には十七か所の共同浴場があり、それぞれの浴場で異なった浴法を用いていた。

それには十二通りの浴法を用いていた。

・打たせ湯 町の中央から湧出するぼう大な量の温泉を十七本の滝にして落とし、高い滝、低い滝、太い滝、細い滝と工夫して、浴客の身体の強弱に適したそれぞれの滝を選ばせて打たせた。マッサージ療法である。

・うすめ湯 温泉に清水を引き入れてうすめ、低温にして用いた。
・目洗い湯 尺五寸の正方形の浴槽を作って源泉を引き込み、目洗い場とした。
・飲み湯  水で湯をうすめて飲んだ。
・あわせ湯 水でうすめた低温の湯と源泉のままの高温の湯とを交互に浴した。
・熱 湯  高温の湯に短時間入る。
・温 湯  普通か、やや温かい温度の湯に入る。
・浅 湯  浴槽を浅くして半身浴を行なう。
・深 湯  浴槽を深くして入浴する。水圧による医療的効果がある。
・蒸し湯  温泉を床の底に通してその上に寝て蒸気浴をする。また熱い湯に浸した手拭いで患部を蒸す。
・脚気の湯 温泉の流れに足を浸す浴法である。
・時間湯  摂氏五十一度くらいの高温の湯に短時間、一人の指導者の号令によって集団で入浴する。このとき幅一尺、長さ一間くらいの板で湯を揉んで入る。入る時にかぶり湯といって、五、六十杯の湯を頭からかぶる。これは高温の湯に入る為の貧血を防ぐ。

 別府温泉では砂浜に湧く湯で砂湯を行っていたし、鉄輪温泉の蒸し湯は著名であった。

 また秋田玉川の湯では地熱を利用した地蒸しがあり、痔や婦人病の治療に用いられていた。

 このように、江戸時代のわが国の土俗の温泉療法は、現在用いられているリハビリテーションの療法のすべてを内包しておる、後年ベルツによってヨーロッパに紹介され、西洋温泉医学に大きな影響を与えている。

 箱根の湯本温泉や芦之湯は、鎌倉時代に湯治場として使われていたことが記録として残されているといわれており、また同じ箱根の底倉湯は、応永10年新田義睦が箱根底倉に潜伏中討ちとられたという記録があるなど、古い歴史をもつ温泉地であるが、箱根七湯として形を整え始めたのは、江戸初期といわれている。貞亨3年(1686年)の箱根湯壷の資料から、その頃すでに箱根七湯へ江戸から湯治客が訪れていたといわれている。また、湯治は一回り7日という考え方が箱根では定着していたが、その一方で一夜湯治ということが湯本で行われたために、小田原宿場の客が減り争いが起こったこともある。このことは、当時の温泉宿が遊興的な面をもっていたことがわかり、温泉の使われ方として興味深い。

2) 江戸時代の温泉医学
 江戸時代となって世が太平になるにつれて学問の発達はみるべきものがあり、江戸中期に至って温泉療養(湯治)が科学的見地から検討されはじめた。また療養のために各地の温泉を訪れた人達が紀行文、入湯日記や入湯案内書などを数多く残している。例えば古いところでは雲巌の予州道後温泉記 寛永21年(1644)、林羅山の攝州有馬温泉記 寛文11年(1671)、著者不詳 有馬山温泉小鑑 貞享2年(1685)などをあげることができる。

 江戸中期、温泉をもって「たいがい灸治と同意なり」と論じた後藤艮山は温泉の医学的研究の端緒を開いた先覚者である(享保18年、1733年没)。その門下に香川修菴(太沖)、山村通菴などの名医を輩出して温泉医学の啓発につとめた。香川修菴はわが国の温泉療養(湯治)の最初の医学書といわれる一本堂薬選続編、元文3年(1738)を著わし温泉療養の普及を計った。本書は試効、審択、浴試、浴度、浴法、浴禁、弁正などの項目に系統的分類をし記述している。そのなかで但馬城崎温泉を海内第一泉に推し、攝州有馬、豆州熱海を第二泉としている。艮山、修菴が選んだ温泉適応疾患の範囲は広く、腰痛症、脳卒中、痛風、脚気、外傷、痔、癩、便秘、尿閉、婦人科疾患、性病にいたる疾患が含まれている。

 また浴療法のみでなく飲泉療法についても、療養泉の選び方や瀑布浴、灌注浴についても述べている。さらに温泉の老化現象、すなわち遠隔地に温泉を運んだり、時間が経過すると効果が減退することを説いている。しかし一方では遠隔地に温泉を運んだ記録もある。

献上湯、献湯、御汲湯、御前湯、取寄湯などのことばは、いずれも温泉水の運搬献上に関連したものである。献湯に用いられた温泉としては、熱海、伊東、湯河原、草津、有馬などが代表的なものであった。また和倉温泉のように一般村民が樽湯をとりよせて入浴に用いた例もみられる。艮山の門下である山村通菴は諸州の温泉について泉質、泉効を実地調査し、また人工温泉を創製している。下って柘植竜州は温泉論三巻、文化6年(1809)を著した。これには温泉の成因を論じ、泉質や効能をとき、有馬をもって天下第一湯をしている。また婦人を共に竜とう(一種の膣洗滌用具)を用いて温泉子宮洗滌を研究し、不妊症に応用した実験例を記載している。
 下賀茂季鷹は但馬城崎湯治指南事、文政3年(1820)を、宇津木昆台は温泉辨二巻、天保12年(1841)を著している。

 一方江戸末期における特色は不完全ながらも宇田川?庵によって温泉の分析が試みられたことであろう。?庵は舎密加すなわち今日の化学に通暁し、当代第一の化学者であり、舎密開宗(西洋化学書の嚆矢)、文政11年(1828)を著して温泉化学を研究したが、その後、文政11年から天保14年に至る16年間にわたって、諸州の温泉39ケ所の温泉分析をおこなった。有名なものだけあげても熱海、湯河原、修善寺、湯ヶ島、有馬、鳴子、山中、山代など多数に及んでいる。舎密開宗外篇によると温泉の分類として、酸泉、塩泉、硫泉、鉄泉の4種類に分けている。また温度による分類もおこなわれ、熱泉(36℃以上)、温泉(30〜35℃)、暖泉(21〜29℃)、冷泉(16〜20℃)、寒泉(15℃以下)とに分けられていた。

 さて湯治ということばはこの時代には完全に温泉療養を意味するようになり、温泉地を湯治場と称していた。薬剤や手術療法の未発達の時代であったから、温泉の効果に絶大な信頼と期待がかけられていた。また反面遊興のために温泉が利用される傾向もでてきた。このような狂信的温泉信奉観念や遊興的温泉利用が現在まで尾を引く結果となった。

(4)明治時代から昭和20年代まで
 江戸中期以降温泉の一般的利用が盛んになったとはいえ、交通や経済の発達は未だ不充分であり、その利用はかなり制約されていた。明治に至って諸政改革が実施され、地租改正に伴う温泉権の認識、経済活動の活性化、道路、鉄道の整備、情報、宣伝の普及、温泉の分析、効能の調査研究の進展、温泉施設の充実等に伴って温泉の利用が急速に高まってきた。特に明治初期来日した外国人教師の温泉関係分野における影響は極めて大なるものがあり、温泉ならびに温泉地に著しい変化をもたらした原動力となった。わが国ではこの明治の大改革につづき第2次大戦後の昭和の改革を経て現在21世紀に至っている。

広重が描いた江戸時代の箱根七湯

 資料:「箱根温泉史」昭和61年から

1) 外国人教師の功績
 明治となり新政府は医薬の分野においても多数の外人教師を招聘して研究指導にあたらせた。ヨーロッパの温泉分析技術、温泉医学を採用し西洋医学に立脚した温泉の利用法の普及に努めた。まず明治6年(1873)文部省達で全国各地の鉱泉起源、効能などを調査報告させ、ひきつづき明治7年東京、明治8年京都、大阪にそれぞれ司薬場を開設し重要所管事業として明治7年から鉱泉分析を開始している。これより以前フランス人Leon Descharmesは明治6年8月草津、伊香保に旅行し草津温泉と伊香保温泉を調査しその結果を日本アジア協会紀要VO.2に報告している例もある。しかし本格的な温泉定量分析が実施されたのは明治7年の熱海温泉、明治8年の草津、伊香保、四万温泉である。これらの温泉分析は東京司薬場のマルチンによる分析でホフマンによって医治効用が決定されている。また同年大阪司薬場のベ・ウ・ドワルスによって有馬、城崎温泉も分析されている。明治8年内務省衛生局雑誌2、3号には伊香保、草津、四万温泉の分析表が発表されている。この雑誌にもとづいて熊谷県では伊香保、草津、四万温泉の入浴者心得を翌明治9年6月出版し入浴者の指針とした。これは数葉の温泉入浴指導書にすぎないが官版としてはわが国最初のものである。入浴に際しては適応症を決定することは勿論大切であるが、そのほか気候、地形等の環境因子が温泉治療の補益になること、入浴温度は36°〜38℃が適当であり、入浴回数は体力、年令に応じ1日に1〜3回がよい等数ヶ条に分けて記載されている。また飲泉についても朝夕空腹時に1回にコップ1〜3杯程度としている。

 明治9年には米国のウアルトン著「温泉論」が大田雄寧によって邦訳され、米国およびヨーロッパの温泉医学の全容を知ることができるようになった。日本各地の温泉の分析がマルチンやヘールツ(A.J.C. Greets 1843〜1883・オランダ人、横浜司薬場教師)によって実施されたのもこの頃である。ヘールツは日本薬局方草案作成に盡力する一方わが国各地の温泉をくわしく分析してこれをヨーロッパの有名温泉と比較して効用利害を明証して明治12年(1879)7月、日本温泉獨案内を公にした。ヘールツもその著で指摘しているごとく日本の温泉分析は明治以前すでにHeinrich Burger によって文政10年(1827)雲仙、小浜、栃の木、垂玉、嬉野、武雄等の九州の温泉で行われている。この分析の目的はSieboldが日本の温泉の医療効果を知るためヨーロッパに見られない温泉の特異性を知るためにBurger(ビュルヘル)に依頼したものであると考えられている。

 またビュルヘルと同年代に舎密開宗の訳者宇田川榕庵は熱海、諏訪をはじめわが国の多数の温泉分析を試みている。文政11年(1828)。したがって明治になってやっと普及しだした温泉分析の萌芽はこの頃からあったのである。

 ヘールツは鉱泉を次のごとく分類している。



 明治初期はヘールツら外人教師の指導により経験的に利用されていたわが国の温泉をヨーロッパの温泉分類に従って分類し、科学的見地より適応症を決定し温泉療養の指針を作成しようとした時代であった。このように国によって温泉分析の事業が取り上げられて以来明治14年にはフランクフルトで開催された萬国鉱泉博覧会に、日本の鉱泉分析表、鉱泉水、源泉や浴室模型を出品することができるまでになった。この時収集した温泉分析資料を編纂したのが内務省衛生局編、日本鉱泉誌三巻、明治19年(1886)である。その内容は温泉をその化学的成分から単純泉、酸性泉、炭酸泉、塩類泉、硫黄泉および泉質未詳に分類し、鉱泉医治効用、利用法、管理法についても説明している。本書は西洋医学が基きわが国で最初に完備された温泉書ということができる。

 明治初期のベルツ博士のわが国の温泉に対する指導は見のがすわけにはいかない。まず伊香保、熱海を指導して、日本の温泉のモデルにすべく伊香保を例とし、明治13年(1880)日本鉱泉論を著わした。その後箱根、草津を指導し、母国ドイツに川中温泉の微温長時間浴や草津の時間湯(高温短時間浴)を紹介したことはあまりにも有名である。ベルツ博士は日本鉱泉論の中で温泉療法は浴療、飲療、気候療法の三療法を組合わせて実施すること、医師の診断によらなければ温泉療養の効果をあげえないからと温泉医の必要性を力説し、温泉療養地学的見地から道路、上下水道、消防設備、飲泉施設、浴施設、保養公園等の環境、施設整備についても細部にまで言及している。かつて西川義方博士はその著、温泉言志に本書は「日本温泉学を修せんとするものには必讀すべき冊子である」と述べている。

 ベルツはわが国温泉医学の父でありその業績はあまねく知られている。ベルツが来日した明治9年はわが国の温泉分析が緒についたばかりの頃であり、ヘールツ、マルチン、ベ・ウ・ドワルスらの温泉分析を参考にし、自らもこれらの温泉を調査し温泉研究に取り組んだものと考えられる。伊香保温泉では昭和61年7月28日、わが国で最初に系統的指導をうけたことを記念し同時にベルツを顯彰する目的で源泉地に若き日のベルツの胸像を建設した。

 明治19年(1886)には内務省衛生局編の日本鑛泉誌三冊が出版された。本書は泉質分類医治効用、鑛泉の用法、気候療法、鑛泉の利用と管理法をあげ、十三葉の温泉分布図を加えたもので、官版日本鑛泉誌第一号である。

 その後、明治44年(1911)、ドイツ国ドレスデンで開催された萬国衛生博覧会出品のため、独文のBadeund Luftkurorte Japansが出版され、さらに大正4年(1915)米国パナマで開催された萬国平和博覧会に出品のためThe Mineral Springs of Japan が出版された。これにはわが国で測定まもない温泉のラヂウム放射能測定数値までのっている。

草津西の河原にあるベルツ博士と同僚のスクリバー博士の胸像

 (草津町資料)

2) 温泉のラドン含有量の測定
 伊香保温泉におけるラドン(ラジウムエマナチオン)の発見。

 温泉水中の放射能の測定は東大の眞鍋嘉一郎教授、石谷伝一郎教授によって開始され、さらに石津利作、衣笠豊爾博士などによって受けつがれ山梨県の増富、鳥取県の三朝温泉など世界的な放射能泉が発見されている。

 まず最初「明治四十二年夏季上野伊香保温泉において検索の結果(エマナチオン)の存在を証明し得たり」とは東京医学会雑誌に東大眞鍋、石谷両先生が発表されているところであるが、検索の経過について石谷先生は次のように述べている。

「去る明治四十二年夏自分は医科大学の眞鍋学士とわが国の温泉におけるラジウムエマナチオンの調査に着手して関東の一部と兵庫県地方の温泉地十二、三ケ所の源泉九十ケ所を調査したが、伊香保温泉巡回の節、其源泉地に天幕を張って研鑚苦心惨憺の結果ラジウムエマナチオンを発見し、温泉に関する医療との効用、輻射学一般に関する学術の進歩に新紀元を画するに足る資料を得たが、不幸折柄の洪水に遭遇し、是等の材料を鳥有に帰し、遂に短時間のため之が分析表を作るに至らなかったのは実に終生遺憾に堪へぬ処である。」この文面から、わが国の温泉において最初伊香保温泉でラドンを発見しながら洪水のためその資料を流失し分析数値を発表できなかった眞鍋、石谷両先生の心境をうかがい知ることができる。この事実を裏付ける資料として当時湯元に天幕を張りその中で両先生がラドンを測定している場面と、天幕に伊香保温泉有効新成分発見記念、明治四十二年八月二十七日と張紙のある場面の二枚の写真が現存している。その後大正2年衛生試験所の石津、衣笠両博士により全国多数の温泉分析が実施され、ラドンの測定も行われた。その結果は大正4年(1915)米国パナマで開催された萬国平和博覧会に出展したThe Mineral Springs of Japanのなかに他の温泉資料と共に発表されている。

3) 温泉の研究組織
 昭和4年(1929)日本温泉協会が設立され、その中に、医学、化学、地質、法律など温泉の各分野にわたる研究を行うため学術部が設けられた。また、昭和6年(1931)には別府温泉に九州大学温泉治療学研究所が、わが国最初の温泉医学研究所として創立された。その後大学の研究所または分院は、北大(登別)、岡大(三朝)東北大(鳴子)、群大(草津)、鹿児島(霧島)と六つの国立大学に開設され、温泉医学研究に取組んだが、昭和50年代になって日本の医学の流れの変遷の中でその役割を終え、現在ではほとんど廃止をされている。また、昭和10年(1935)には日本温泉気候学会(後に日本温泉気候物理医学会)が発足し、現在も活躍を続けている。

4) 温泉利用の変遷
 わが国の温泉地には古くから地形や泉温、泉質、湧出量を活かした温泉利用法が発達している。代表的なものをあげると傾斜地を利用した瀧の湯、露天風呂、温泉湧出砂浜を利用した砂湯、高温度を利用した時間湯(草津、那須)、蒸湯(四万、後生掛、中房、柴石、鉄輪)、低温を利用した低温長時間浴(川古、川中、湯岐、畑毛)、寒冷浴(寒の地獄)、かけ湯(峨々、湯平)、泥浴(別府紺屋地獄)、直し湯、合せ湯(草津と沢渡、栃尾又と大湯)、飲泉(四万、湯平)、吸入(須川)など様々な利用法がある。明治に至り西洋医学が導入されてから種々の変化がみられる。まずベルツの指導で伊香保温泉で寝湯や鯨噴浴が設置されている。これは明治15年頃から20年代であり一定期間存続した。また熱海温泉では温泉蒸気を吸入するための吸入館を設置した。大内青巒編輯の熱海濁案内によれば「きうき館大湯泉窟の傍に沿って之を建つ衛生局長長興専斉明治18年2月始めて其館を開く、きうき場は中央に機関を設け大湯沸騰の度毎に其蒸気を場中に引き患者をしてその中に呼吸せしむまた浴室を構へ病症に従って兼て之に浴せしむ。館内に浴医局あり浴医長一人属員数人を置て各温泉宿に在浴せる患者の来診を接し處方箋を興へ、きうき及び浴療の方法等を指示す」となっている。そのほか山代温泉では明治三十八年頃山代鉱泉顧問医林友太郎が総湯の傍に屋舎を築き中に電気浴室を設け温泉浴と電気療法の併用を行なっている。山代温泉名勝(明治40年再版)。

 飲泉についても温泉分析がおこなわれてから開始した温泉も多い。例えば有馬温泉の炭酸泉のごときは分析以前は毒水なりとし近づく者はなかったが司薬場教師ベ・ウ・ドワルスが明治8年この源泉を分析し有効なる炭酸水なることが判明し以降飲泉や入浴に盛んに用いられるようになった。伊香保温泉においてもベルツの指導を受けた明治10年頃から飲泉が開始されている。また全国的にも珍しい呑湯を示す道しるべ(明治23年建立)も湯元紅葉橋の傍に現存している。温泉浴場についても総湯、大湯(共同の浴場で外湯)から宿泊施設に設置する内湯が増加していく。最近は前記の個性的温泉利用があまりかえりみられず画一化の傾向がみられる。

5) 温泉地の御用邸と行幸・啓
 明治になり東京周辺の有名温泉地には御用邸が盛んに建設され、それに伴って皇族方の温泉行も多くなる。ここで二、三の例を挙げてみよう。明治5年(1872)天皇の母宮と皇后とが箱根宮の下に湯治のため逗留されていたことがフランス人G.H.ブスケの日本見聞記にみられる。明治12年(1879)には英照皇太后(孝明天皇の皇后)は伊香保温泉に行啓されている。この年七月十七日東京を発駕、途中三泊二十日午後伊香保温泉樂山館木暮八郎方に着御された。供奉の随員は近衛兵以下百余人。主なる者は皇太后宮太夫万里小路博房、宮内大書記官香川敬三、三等侍医竹内正信、典侍万里小路幸子、掌侍錦織隆子らで伊香保に八月二日まで滞在されている。このように天皇家の行幸・啓が温泉地を中心に行なわれるようになり熱海、伊香保、箱根などの温泉地は上流社会向けの温泉保養地、避暑、避寒地として発展してゆく。そして未だ大磯も逗子も葉山も開けていなかった時代に避寒地として推奨されたのが熱海温泉であり、明治21年には早くも熱海御用邸が完成した。この御用邸は健康のすぐれなかった皇太子(大正天皇)の冬期保養のためにあてられた。つづいて明治23 年(1890)伊香保温泉の元老院金井之恭の別荘及びその附近の土地約3000坪を買い上げ伊香保御料地と称することになった。当時この御料地選定については宮内省侍医からの復命書にもとづき温泉が医学的効果にすぐれ温泉地環境がよく避暑に適切な土地であるなどの条件が指定されていた。またベルツは明治23年頃から天皇の侍医を務めており皇太子(のちの大正天皇)の健康増進のための保養地計画を進言している。したがって熱海、伊香保、葉山、箱根いずれもベルツの推めによるものと考えられる。なお葉山御用邸も伊香保御用邸の選定と同年である。伊香保御用邸については特に明治44年(1911)7月には天皇孫殿下(昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下)が長期御滞在になり少年時代の一夏を過ごされている。戦後御用邸敷地の一部は伊香保町に払い下げられたが離宮、温泉および附近の山林は文部省に移管され現在は群馬大学で研修施設として利用している。昭和56年(1981)6月4日から6日まで天皇、皇后両陛下が伊香保に行幸啓されたのは陛下が少年時代を過ごされた伊香保と御用邸を懐かしんでの事と推察される。6月5日に御用邸跡を御視察の陛下はいろいろと昔のことを質問され、しばし去り難い御様子であったという。昭和57年(1982)11月17日、行幸時に詠まれた御製の碑(入江相政侍従長筆)が伊香保二ツ岳森林公園もみじの広場に建立除幕された。御製は「伊香保山 森の岩間に茂りたる しらねわらびの みどり目にしむ」である。

 御用邸はこのほか箱根宮ノ下、塩原温泉、那須温泉などにも造営されている。

6) 温泉地の宿泊施設(宿、旅館、ホテル)
 昔から温泉地では宿食分離の形式で入浴者を受け入れていた。入浴者も目的に応じて宿も食も自由に選択できた。宿泊施設については高級な宿から木賃宿に至るまで種々な段階があり、座敷の使用も貸切座敷と合座敷という方式があった。また季節的にも宿泊料に高低差がつけられていた。飲食についても

  (1)自炊方式:主食副食すべて自分で調達して調理する。
  (2)伺い方式:宿側で食事の度毎に客に伺って好みのものを調理する。
  (3)賄方式:料金を定め宿側の考えで食事を調理し、客に提供する。

等の方式があった。したがって湯治のため長期滞在するためには経済的負担を軽くする方法として合座敷、自炊方式をとることが多かった。ここで参考までに信州別所温泉誌(明治33年)飯島寅次郎著に記載されている一文を挙げると「温泉宿は三十戸餘あり柏屋、倉澤、鶴屋には内湯あり其外の共同浴槽には誰人にても入浴すること随意なり、温泉宿は何れも浴室の往来に便利よき地位に軒を並べ招燈看板を掲げ客室は一間毎に仕切り戸締りを設け戸棚箪笥等を供へ浴衣寝具勝手道具竃(かま)まで一切宿にて借受けることを得べし、自家より携行くは素より勝手なり、又宿賄ひにて一日何程と賄料を定めて滞留するも域は普通の旅籠料にて宿泊するも又は自ら食事を携へ行き自ら調理するも各自の好みに随ひ総て宿へ談ずれば懇切に取扱ひを為すが故に亳しも不自由を感せず入浴料はさらに浴客より取立ることなし」というもので明治時代後期の中規模温泉地の様子を知ることができる。また山形県吾妻温泉誌、酒仙花涙編(明治34年)には温泉地況に「浴場は昨年発布の県令に則り全く改造し男女二泉に分割し周圍は硬固なる石材を似て取り堅め又排水路を設け泉水の流通を善くしたれば完全無欠の温泉となれり」とある。この文より明治33年までは浴室は男女の別なく入込湯であったものと思われる。前記のような湯治に適した受入制度をとっている湯治場は東北、北関東、信州、中国、九州地方などに比較的多く存在している。しかし明治も中期をすぎる頃から道路や交通機関の発達によってしだいに変容してくる。多くの温泉地において遠来の客は温泉地を歓楽化し、これに迎合する湯宿もその施設面において次第に素朴さが消え目先の華やかさを追求する方向をたどりはじめるのである。さて一方明治時代になると外国人の国内旅行も自由化され温泉地にも外人がどっとおし寄せて来る。特に東京近傍の箱根、熱海、伊香保、草津、日光、九州の別府、雲仙などの温泉で、多くの紀行文も残っている。箱根宮ノ下には明治11年7月わが国で最初の本格的リゾートホテルとして富士屋ホテルが開業、また雲仙にも大正末迄に洋室、洋式バスを備えたホテルが7軒も誕生している。伊香保温泉においても外人が家族連れで訪れている。

 この情況は明治15年出版された三枚続錦絵上野国伊香保温泉繁栄之図、広重、に画かれている。(註、わが国の温泉地の錦絵で外人が画れているものは伊香保以外にはない)

 また伊香保では外人来湯者増加のため下記のごとく明治23年には西洋料理店が早くも開業している。

西洋料理開業報告
 西群馬郡伊香保町大字伊香保十三番地
   木暮 金太夫
  明治二十三年五月創業
  西洋料理営業
右之通相違無之依面報告仕候也
       明治二十三年五月廿四日
         右 木暮金太夫
   伊香保町長 嶋田多朔殿
       (伊香保町役場文書)

 木暮金太夫はこれに引きつづきホテル部門として洋式の伊香保ホテルを別に開業している。外国人の国内旅行コースとして東京―軽井沢―草津―伊香保―日光―東京が指定されたのは明治10年代である。

7) 太平洋戦争と温泉地
 太平洋戦争の勃発によって日本はすべてが戦争に向けられた体制を余儀なくされた。温泉地もその例外ではない。都会に近い温泉地は学童の疎開地として使われたり、傷痍軍人の療養のための陸軍病院や海軍病院として使われた温泉病院も多い。昭和20年代は敗戦による戦後の荒廃から立直るため全国民が全力で取組んでいた時代であり食糧難の時代でもあった。終戦から5年経過した昭和25年ですら伊香保温泉で開催された日本温泉気候医学会総会に出席する会員は米持参という状態であった。したがってこのような時代には一般国民が温泉療養のため温泉地に長期滞在することは極めて困難であった。昭和10年代から20年代の温泉地は、利用客が著しく減少した空白の時代といえよう。

8) 日本における飲泉の歴史
 ヨーロッパ諸国では温泉療養に際して温泉の浴用と共に飲用も盛んであるが、わが国においては浴用が主であって、飲用についてはごく限られた温泉で試みられているにすぎない。これには温泉医学的知識の不足、わが国の温泉の泉質、良質の飲料水の存在、生活習慣の差など、いろいろの要因が関与していたと考えられる。
 西洋温泉医学が導入された明治以降においては、いくつかの温泉で新たに飲泉が開始され、さらに昭和初期より多くの温泉医学者や日本温泉協会の研究と指導の結果、温泉地での飲泉の普及が計られた。しかしその後昭和60年代の今日に至るも、温泉療養のための飲泉が盛んになったとは言えない状態である。したがって、各時代の飲泉の記録はほとんど見当たらないので、明治以降の飲泉の状況を独自に観た方が便宜であろう。

 わが国においては、ごくわずかの温泉で飲用に供されていたことも事実であり、文献中にも温泉の飲用やその効果について記載されたものがある。最も古い記録としては持統天皇の御代(686〜696年)日本書紀に醴泉(こざけのいずみ)を試飲させて多くの病者を治療したことが記載されているので、飲泉の始は今より実に1300年前ということになる。それ以降江戸中期に至るまで飲泉についての記録はほとんど見当たらない。

 江戸中期以降の記録としては四万由来記、享保17年(1732)に「飲時調適、飲己除病」と飲泉についての記載があり、そのほか香川太仲の一本堂薬泉續編、元文3年(1738)に「凡飲之覺腹中煖 不瀉利者佳 呑過直瀉者悪」と、草津温泉紀行記、光泉寺(江戸中期)には瀧の湯の項に「湯は呑たるよし、しひて呑ば腹中にあたることあり、日にしたがいて多くのむべし、一あたりあたるもよし」と、さらに御座の湯の項には「湯本へ至るとそのままつぼのみきりの湯をたくさんに呑みたるよし、さあればすこしくたりて腹あいも涼しくなるべし」と温泉飲用の方法とその効果について述べている。また日光山中禅寺温泉記、寛政3年(1791)には「湯を多くのむ時は食すすまずと心得べし」と飲泉に対する注意を、諸国奇談東遊奇談、寛政13年(1801)の伊香保温泉の項には「あぢはひ清水のごとし」と伊香保温泉の味について述べている。山東庵京山の熱海温泉図彙、文政13年(1830)には熱海温泉は「しほけありて苦し、此のしほけは潮のしほけと同じからず、大便通ぜざる人一碗を喫すればこころよく通ず」と記載されていて、その当時から温泉が飲用されていたことを示している。一方貝原益軒は有馬湯山記、宝永8年(1711)に「温泉に毒ありのむべからず」と、また養生訓、正徳3年(1713)の洗浴の項にも「温泉のむべからず毒あり」と述べているが、これらは飲泉の濫用をいましめているものであろう。上記以外の温泉でも記録では明らかでないが出湯、村杉、五色、玉造、湯の平等で古くから経験的に飲泉がおこなわれていたことが知られている。

 明治に至り、ベルツ博士の指導により伊香保、磯部で飲泉が開始され、有馬の炭酸泉も飲用に供されるようになった。明治9年(1876)に熊谷県から草津、伊香保、四万温泉入浴者心得が出版されたが、これはわが国における温泉入浴指導者官版第一号であり、入浴のみでなく飲泉についても本泉内服の心得として、各温泉ごとに飲泉の適応症をあげ、飲泉方法についても飲泉量、温度、飲泉時間、などの注意が述べられている。ヘールツ著、日本温泉獨案内、明治12年(1879)にも温泉の浴用、飲用についての注意が記載されているが、とくにベルツ著、日本鉱泉論、明治13年(1880)には、伊香保温泉を例として温泉療法は治療、飲療、気候療法の三療法を組合せて実施するようにし、飲療については適応症、飲泉量、飲泉回数、飲泉施設について詳細に述べている。飲泉施設について「源泉にて飲用するため道路の便宜を要せざるべからず、よろしく其狭隘尖頂の地に石円柱を設置し、之に泉源を導き其柱口より水を噴出し人々をして硝盃を其口に当て流泉を満受するを得せしむべし、巳に杯に泉水を満受したる人は石円柱の周圍を廻行して帰路に付くべし、然るときは十分時間にしてふたたび泉源に至るべし而してふたたび泉水を杯に充て飲み回轉して行くを得べし」と飲泉施設の設計やその具体的利用方法にまで言及している。そのほか温泉療養地学的見地より改善すべき多くの点が指摘されている。本書はこれまでに類をみない充実した内容であり、それ故わが国近代温泉医学の原典とみなすことができよう。

 その後飲泉療法の学術的研究は大正、昭和年間に至って本格的に開始された。昭和4年(1929)日本温泉協会設立後、その学術部委員である真鍋、三沢、西川、藤浪、高安らにより飲泉が提唱され、飲泉に関する講演会が全国各地で実施された。また昭和9年(1934)には、温泉地で飲泉を普及促進させる目的で飲泉場の和、洋二種類のモデル設計図も日本温泉協会より発表されている。さらに前記学術部委員の意見を参考として、協会では二種類の飲泉コップを製作し、各地の温泉に配付したのが昭和13年(1938)である。昭和10年(1935)日本温泉気候学会(後に日本温泉気候物理医学会と改称)が創立されて以来、泉浴の研究と共に飲泉の研究も盛んになった。例えば温泉では磯辺、伊香保、金鶏、下賀茂、飯坂、市ノ瀬、上山田、花巻などを挙げることができ、対象疾患としては主として消化器疾患、低色素性貧血、糖尿病、腎機能におよぼす影響等である。

 戦後昭和36年(1961)第26回日本温泉気候学会総合シンポジウムにおいて、飲泉療法がとりあげられ、小嶋、杉山、森永、小林、森岡らが報告している。小嶋が関東中部地方の温泉40ケ所について調査したところでは、四万、黒薙の2ケ所では浴用より飲用の方が多く、澁(長野)では同程度で、残りのほとんどは浴用が主体であった。対象疾患としては胃腸疾患が圧倒的に多く、泉質としては食塩泉が最も多く、ついで硫化水素泉が飲用されている。杉山が東北地方の温泉10ケ所について調べた結果、飲泉率は5〜45%であり、飲泉と消化機能の問題についても報告している。また森永は放射能泉である三朝温泉の飲用による消化機能や糖代謝におよぼす影響等について述べている。全般的にわが国の温泉飲用については、医師の指導が非常に少ないこと、飲泉が低率であること、飲用の対象疾患が胃腸疾患に限られていることなどが指摘されている。

 その後昭和54年(1979)第44回日本温泉気候物理医学会総合シンポジウム「温泉場における湯治の実態」で萱場は鳴子農民の家で30%、玉川温泉で74.2%飲泉がおこなわれていることを、鈴木は峨々温泉において入浴回数と同じ頻度90%〜100%飲泉がおこなわれていることを、新村は霧島、指宿地区の温泉で入浴54.2%、併用41.2%、飲泉のみ0.6%であったことを報告している。また筆者は関東地方でもっとも飲泉が盛んである四万温泉について調査し、飲泉の頻度が57.5%であることを報告した。

 上記のごとく調査対象の温泉については飲泉頻度は高いが、温泉全般については飲泉の頻度は低く、医師の関心度も少い。これらの点がヨーロッパ諸国の温泉と異る点である。

 最近の動きとしては、昭和61年7月に、環境庁から飲泉に関する温泉利用基準の一部改正が都道府県知事宛通知された。これは、飲料水やミネラルウォーターや温泉飲用に対する一般の関心が高まりに対応して、飲泉の普及と安全性を確保しようとしたものである
が、その後日本における飲泉が急激に伸びたという報告はみられない。

長湯温泉の飲泉場


 ドイツバートクロッインゲン市との交流を記念してヨーロッパ中世風の飲泉場が建てられた。

(5)昭和30年代以降の温泉地
1) 一泊二食宴会型温泉利用
 昭和30年代に入ると日本の経済は神武景気に沸き「もはや戦後ではない」ということばが流行した。経済の急成長が温泉の利用形態を著しく変え始めた。モーレツ社員とかソーレツ社員とかいわれた人たちは、仕事のために働きつづけ、保養のために温泉地に滞在するような発想は持ち得なかった。温泉地は一夜の享楽を求める場所であった。その結果、温泉は盛り場的色彩を強め、一泊二食宴会型団体旅行を受け入れるに都合がよいように旅館やホテルが変容してしまった。このような旅行者は温泉の保養的な効能を求める必要はなく入浴できる湯があればよかったのである。温泉地に都市と変わらぬ温泉のない旅館やホテルが出現したのもこのためである。また受入側の旅館やホテルは施設の規模拡大にのみ心を砕き、温泉を単なる経済的熱源としか考えない傾向に陥ってしまった。昭和40年代になっても高度経済成長にささえられこのような傾向が続き、温泉枯渇や温泉掘さくが目立ちはじめた。その結果温泉の湧出量が不足し、集中管理をしなければならなくなった温泉地も出現した。現在起こっている温泉に関する適正表示の問題は、この頃の温泉に対する考え方が遠因をなしている。その後二度の石油ショックを受けたものの、昭和50年代後半まではこのような温泉利用のまま、安定成長が続いた。

2) 温泉に対する国の関与
 温泉法が制定されたのは、昭和23年7月であった。それまでは、地方長官の取締命令が適用されていたが、新憲法の下、法律によって定める必要が生じたからである。しかし、この法律では、従来、命令で定められていたものが形式的に法律になった程度であり、実態的にそれまでと大きな変化はなかった。つまり、温泉の定義が法律上明確になり、温泉の掘削と利用について都道府県知事の許可が必要であることなどが法律で決められたが、温泉を積極的に活用し、健康づくりや観光の増進のため、保養的な温泉利用の促進などについてはあまり規定されなかった。ただ、温泉公共的利用の促進のため、温泉利用施設の整備及び環境の改善に必要な地域の指定ができるという規定はあった。この規定に基づき、昭和29年から国民保養温泉地が指定され、当時における一般的な温泉利用の傾向に対し、温泉の保養的利用が促進された。国民保養温泉地は最初3箇所が指定されたがその後次第に増加し、現在では91ヶ所の温泉地が指定されている。この中には長湯温泉や日光湯本温泉など、国立公園に指定されている地域の温泉地がかなりあり、自然環境豊なところが多い。温泉法は制定当時は厚生省の所管であったが環境庁発足時に同庁に移管され現在は環境省の所管となっている。温泉が健康の視点から環境の視点に変化したことを表しており興味深い。環境省では毎年「温泉利用状況」という調査を発表しているが、この調査により温泉地数が最初に調査されたのは昭和37年である。このときは1518個所であったが平成14年には3102箇所となっており、20年間で倍増している。この中には、自治体などがふるさと創生事業として掘削した一軒の宿泊施設しかない温泉地が多い。歴史のない温泉地がいかに急増したかが良く分かるデータである。外国の温泉地数と比較する場合の問題点の一つでもある。

3) 国による観光の推進
 観光の推進は、国の重要な仕事であり多くの省庁が関わっている。昭和38年制定された観光基本法では温泉は環境資源として位置付けられ、国はその保護、育成、開発を図るため必要な施策を講じなければならないこととなっている。昭和30年代はソーシャルツーリズムの全盛時代であり、身体的又は経済的な理由から観光旅行に参加できない人のために国や自治体が支援して参加させるという考え方で多くの公的宿泊施設が建設された。国民宿舎、国民休暇村、大規模年金保養基地、厚生年金会館、かんぽの宿、ユースホステルなどがそうである。これらの施設は必ずしも温泉施設をもっていたわけではないが、温泉施設のあるものでも民間の温泉ホテルや旅館よりも安い料金で利用できる運営が行われていたという点で、一泊二食宴会型の時代にも保養的な性格が残されていた。しかし、結局は、収支のバランスがとれず、赤字施設が増えたこと、施設水準が時代の要請に合わないところが多かったこと、民業圧迫の声が高まったことなどから、国民宿舎は激減し大規模年金保養基地は廃止が決定され、その他の公的施設も廃止問題が残されている。

4) 温泉保養地環境
 温泉地の環境は、保養にとって基本的に重要な要素である。温泉医学では転地効果ということが昔からいわれており、転地という環境の変化によって健康増進がもたらされると考えられている。ドイツでは約300箇所の保養地地があるがそのうち50箇所が気候療養ちである。日本でもこのドイツをモデルにして、クワオルト的な施設づくりが数多く行われるようになった。例えば草津の中沢ヴィレッジは、高原地区に建てられた大型の複合施設であるが、その中にゴルフ場や自然観察のできる遊歩道など草津の保養に適した気候を十分活かした施設がつくられている。このようなホテルの中のみならず、町の中に遊歩道を整備し町を散歩している楽しみに加えて健康づくりを進める温泉地が増えてきた。昭和40年代の大型ホテル乱立の頃は、ホテルの中にバー、遊技場、みやげ物売り場などを設置しいわゆる囲い込みが流行し温泉街を衰退させた原因をつくったがその反省の意味も含めて街づくりが盛んになった。訪問者が町を歩かなくなればその温泉地は衰退するという歴史を経験しているのである。修善寺、山中、鹿教湯など町全体に遊歩道が張り巡らされている温泉地も数多い。また、マイカーの温泉地乗り入れは、散策を妨げ、排ガスが健康を阻害することから、草津や由布院のように町の入り口に駐車場を設け、そこからは歩いて又はバスで目的地に行くいわゆるパークアンドライドといわれる方式の環境保全が社会実験として行われるようにもなった。また、高齢者のウォーキングが盛んな時代であるが、日本ウォーキング協会では温泉地とタイアップして温泉地を歩く「温泉ウォーキング」を始めた。ウォーキング環境と健康づくりを結びつけた考え方である。エコツーリズムとは少し異なるがこれも現代における温泉地利用の特徴であろう。

山中温泉にある我が谷ダム  美しい自然環境が温泉とマッチしている

 山中町資料

5) リゾート法の出現
 昭和62年に総合保養地域整備法いわゆるリゾート法が制定された。これは、良好な自然条件を有する広い地域に、スポーツ、レクリエーション、教養文化活動、休養、集会を行うことができる滞在型の総合的な保養地を造成し、地域の振興と景気の回復とを狙ったものであった。都道府県知事が計画した地域に民間先導で施設の整備を行い、開発が制限されている国立公園地域、水源保安林、農業振興地域などの地域についても比較的容易に開発が行えるようにした法律である。現在までに42の地域について承認されている。この中には志摩スペイン村を含む三重サンベルトゾーン構想やシーガイア含む宮崎・日南海岸リゾート構想など温泉地を含む開発計画も見られ、バブル経済崩壊前にかなり有名になった構想が入っている。しかし、この法律は、結局は自然豊な地域の開発を促進する日本列島の切売り法であると評価されるような側面があり、バブル経済の崩壊もあって計画倒れになっているところが多い。

6) バブル経済の崩壊と温泉旅行の変化
 日本の経済は、1986年11月から1991年2月までの51ヶ月間をバブル景気と呼ばれている。この間に株、土地、債権、建物、宝石、美術品など多くの資産が実体とかけ離れた価格をつけられ取引された。日本の土地の価格全体がアメリカの土地全体の価格よりも高いといわれたのもこの頃である。この状況が1990年の2月の株価暴落を皮切りに崩壊を始め土地、建物を始めとする多くの資産の価格が下落した。いわゆる価格破壊という現象が起こったのである。それまで、交際費で使われていたお金は、不景気と共に激減し、旅行についても大きな変化をもたらした。それまでの一泊二食宴会型の旅行は次第に影をひそめ、家族型、グループ型の旅行になるとともに健康志向型のいわゆる健康ツーリズム、文化指向型のカルチャーツーリズム、自然志向型のエコツーリズム、アグリツーリズムなどいろんなタイプの旅行形態が行われるようになった。従来の団体旅行を中心に受け入れ態勢を設けていた温泉地は、これに対応しなければならなくなったが、急激な変化に対応しきれず、倒産する温泉旅館や温泉ホテルが続出する情景があちこちで見られる結果となった。また、バブル景気の頃から、日本の宿泊費が外国のそれと比べた場合かなり割高になったことから、外国への観光旅行が次第に増え国内観光の空洞化といわれる危機意識が日本の温泉地を含めた観光地で発生した。日本の温泉地では国内旅行の多様化と国際間の競争いわゆるグローバーリズムとの両方への対応に迫られることとなったのである。これが現在の日本の温泉地が直面している課題である。

 この課題にどう対応するべきかの答えは結局は各温泉地が自分の個性を把握しその中にある宝物を見つけ出すことが必要なのであろう。

7) 健康づくり政策と温泉
 国民の健康づくりは国の重要な施策であり、厚生労働省では、栄養、運動、休養を健康づくりの三本柱として推進してきた。昭和53年度から始まった第1次国民健康づくり対策及び第2次国民健康対策であるアクティブ80ヘルスプランは、平成12年度まで続けられたが、それに続く21世紀の健康づくりとして「健康日本21」が打ち出された。健康21の基本的な方針は、栄養、運動、休養の従来の3要素に加え、タバコ、酒、糖尿病、循環器病、ガンの合計9個の項目について具体的数値目標をたてその数値を達成することを国民運動として展開していこうとというものである。例えば栄養については野菜の摂取量は現状292gを2010年には350gに増やそうという目標が決められている。休養についてはストレスへの対応や十分な睡眠の確保によって健康づくりの推進をうたっているが、具体的な数値目標は定められていない。しかし、温泉が重要な休養の手段であることには変わりはなく、アクティブ80ヘルスプラン時代に提言された温泉地を使った健康休暇の推進や温泉利用型の健康増進施設を利用した場合の経費が医療費控除の対象となる制度はそのまま健康日本21に引き継がれている。国としては、世界でも稀に見る温泉資源の豊な日本であるのでこれをより積極的に活用した健康づくり対策に取り組むべきではないだろうか。

8) 医療機関と保養サービスの結合
 日本には、過去に、六つの国立大学に温泉医学研究所が設立され現在ではほとんど廃止されたことについてはすでに述べたが(明治時代以降の歴史)、それと同じように厚生省が運営していた国立温泉病院もほとんど廃止されたり地方に移管されたりした。しかし、その一方で民間の旅館やホテルが、温泉をリハビリテーションに使っている病院と提携して、宿泊客に温泉による療養を積極的に利用してもらい、かっての湯治のような効果を期待している動きも見られる。例えば鳴子の一部の温泉旅館の経営者が、かって国立温泉病院であった現在町立の温泉病院と提携し、宿泊客の温泉療養のメディカルチエックをし、療養の指導などを受けている。また、鹿教湯温泉では近くの温泉病院による療養指導が受けられるよう提携が行われている。また、民間の病院が院内に温泉を引湯し、治療に利用しているところも現れており、国立病院などと逆の動きが見られるが、一般的に医学の温泉に対する評価が変わったわけではなく、温泉を使っても普通の湯を使っても、診療報酬が何ら変わらないのが現在の医療制度である。

9) 温泉地における健康サービスの発展分化
 一方このような社会的変化を踏まえ、各温泉地におけるサービスは単に浴槽の立派さや露天風呂のやすらぎなどの形のサービスから機能を重視した多様なサービスへと変化し、各温泉地ごとの個性発揮への努力が見られるようになった。財団法人健康開発財団が開発したクアハウスは、温泉施設を情報ゾーン、ふれあいゾーン、美容ゾーン、健康づくりゾーン、健康管理ゾーンなど施設の個性に応じた種類に分け、健康づくりゾ―ンには打たせ湯、寝湯、歩行浴などいろんなタイプの浴槽を利用することによって健康づくりを促進しようとするものであり、約30の温泉地に建設された。東京の平和島にも建設され、都会住民の健康づくりに貢献している。更に2003年には東京の後楽園、お台場、豊島園などに温泉施設が建設され、都市の温泉場として利用されている。また、クアハウスと同じような健康をコンセプトにし、海水を利用したタラソセラピー施設、ドイツ風のテルメ施設なども同じカテゴリーのものであろう。更には健康よりも楽しみやレジャーをコンセプトにした温泉施設、夕食は提供せず宿泊と朝食のみを提供するBアンドBの旅館なども現れている。これは、従来、温泉に入りおいしい夕食を食べるのが主たるサービス考えられていたのと全く異なった考え方によるものである。また、ブランドイメージ作りも盛んであり自己の温泉地の最大の売り物は何かを見つけ出し、それをブランドとしてPRを行うものである。例えば草津温泉は、夏の音楽アカデミーやフェステバルや最近ではサッカーチーム「草津スパ」をブランドとしており湯布院では、街のムードのほか映画祭や絶叫大会などをブランドとしている。このように、現在の温泉地の施設は極めて多様化しており、これが21世紀における温泉地の特徴といえよう。


参考文献
1 健康と温泉フォーラム記念誌 1986年
2 「湯治の歴史」木暮 敬
3 健康と温泉フォーラム記念誌 1989年
 (1)「古代から江戸までの温泉文化史」中沢晁三
(2)「明治以降の温泉文化史」木暮金太夫
4 「温泉」(日本温泉協会機関誌)
(1)「古代の温泉史(一〜五)」立木惇三
 (2)「中世の温泉史(一〜七)」立木惇三
5 「温泉治療の歴史」藤巻時男
6 「箱根温泉史」箱根温泉旅館共同組合編
7 「草津温泉」白倉卓夫編著
8 「新版日本の温泉地」山村順次著
9 「日本の歴史」別巻5年表 中央公論社



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