はじめに
温泉は今日のような薬物療法の発達していなかった時代には、湯治と呼ばれる長期滞在型の温泉利用によって人々は病気の治療に専念したといわれる。薬物・手術療法を主とする西洋医療の発達した現在では、温泉利用は専ら一、二泊の遊興型の、健康とは無縁の利用形態に変わっていった。しかしバブル経済崩壊を機に温泉サービスの提供側も利用者も温泉に対する認識は大きく変わってきた。貴重な自然の恵みである温泉を健康増進、病気の予防にもっと積極的に利用する、といった温泉保養の志向は伝統的なヨーロッパの温泉保養の情報の流入もあって俄かに高まってきた。
そもそも「温泉に入る」という言葉は聞いただけでも同じ入浴である「風呂に入る」とでは気分は大いに違うものがある。体を温める温熱、体を軽くする浮力などの作用は風呂にもあるが、温泉にはそれに溶けている種々の物質の薬理・化学的作用、それにさらに温泉に浸り温泉地で過ごすという、日常とは違った動作、日常とは違った場所と時間に身をおくことでえられるリラクセーション作用も加わる。温泉は含まれている物質によって便宜上9種類に分類され、溶存物質に基づいた特有な温泉浴効果が期待されている(表1)。そのうちでも科学的手法で証明され最もはっきりとした効能として知られているのは保温効果である。保温効果は出浴後も真湯に比較して長時間、皮膚血行の増強がつづく結果起きてくるが、体の隅々にまでより多くの血液が循環している状態を示している。
期待される温泉保養
温泉は第二次大戦前や戦中の抗生物質のなかった時代には湯治場では療養手段として温泉が盛んに利用されたことはすでに述べた。最近では「温泉水」ばかりでなく「温泉地」の効能の研究も行われており注目されている。温泉場の広い浴槽や露天風呂ではリラックス程度を示す脳波が家庭の風呂に入った時よりも明らかに多く出現するといった面白い研究もある。現代社会に生きる我々は本来持って生まれた体内リズムとはかけ離れた現代の生活リズムに合わせて過ごさねばならない。そのために多くの人では体内リズムは歪めさせられ、長期にわたれば体調を崩し、健康を損ねる要因となる。しかし温泉地で一定期間ゆったりリラックスして滞在することによってこの狂わされたリズムを本来のものに修復されることも医学的に明らかにされている。そんな効能が温泉地に潜在しているからこそ人々は自然に温泉に惹かれるのではないだろうか。
昨今、高齢社会を背景に、医療費の急増が国の財政を圧迫し、大きな社会的問題としてクローズアップされ、病気にならないようにしようと予防医学の大切さが盛んにいわれている。温泉のリラクセーション効果も活用してストレスを洗い流し心身をリフレッシュする、そして免疫能を高めて病気を遠ざけてしまうといった研究が予防医学の一環として今改めて見直されつつある。温泉に入り、食べきれない程のご馳走を並べて美酒に酔い、つかの間の享楽のひと時を過ごすという従来の享楽型の温泉利用の仕方があっても構わないが、今の時機に俄かに起きたこの気運を大切にして温泉地が健全な方向に進んでくれればと大いに期待している。この温泉保養に関係した講座は温泉保養地学講座シリーズで「温泉と健康サービス」として開設されているので是非そちらも覗いていただきたい。
温泉の医療効果―相補・代替療法
近年、医学界でもいわゆる民間伝承療法を見直して、薬の働きを補い、副作用を減らす効果も期待される代替医療を今日の西洋医療に取り入れようという考えが出てきた。今、これに関連して温泉のもつ療養効果も大きな期待が持たれている。
温泉には体を温めてくれる温熱作用がある。温熱は全身の血行を高めて組織の代謝を促がしてくれる。温泉には体の重さを軽くしてくれる浮力作用がある。浮力は水中における体の動きを容易にしてくれる。温泉には静水圧作用がある。静水圧は体表面から体を圧迫し水位によっては心臓の働きを助けて血行を促してくれる。温泉は種々の化学・薬理作用(表1)がある。泉質特有の作用は各種疾患の改善効果をもたらせてくれる。このような温泉がもつ作用を利用して今、種々の慢性疾患を対象に温泉療養が盛んに試みられている(図1)。例えば、病気や事故による運動機能障害を改善するためのリハビリテーションに、また慢性関節リウマチ、神経痛などの疼痛改善のための利用である。
温泉水のなかでの運動が呼吸機能を高めることを利用した喘息治療がある。
温泉浴によって血液中の血栓溶解能が高まることをヒントにして、血栓性疾患(脳梗塞、心筋梗塞など)にも温泉が利用できるのではないか、と考えられている。
酸性泉の殺菌力、硫黄泉の免疫能への作用を利用した褥創やアトピー性皮膚炎の治療も試みられている。
このような疾患を含め、長期にわたる治療にも拘わらず治癒あるいは充分な症状改善がみられない慢性疾患は少なくない。薬物・手術を主要な治療手段としている近代西洋療法を受けながらもなお難治性で慢性に経過し、なかには多種、多量の治療薬の長期間使用によって引き起こされる副作用に悩む人も決して少なくないことは前述したとうりである。これら慢性疾患に対する温泉療養は一定期間薬物に代わる代替療法として有用であり、これはまた治療薬の投与量を減らして薬物治療の弊害を防ぐうえでも大いに期待されるものとなる。さらに西洋医療に温泉療法を含めてその他の民間伝承療法との相補・代替療法は両者の合計以上の治療効果を発揮する相乗効果も期待される統合医療であり、これは21世紀の新しい医療形態と唱える専門家もいる。
このように温泉の医療としての利用は近代医療の発達した今日といえども相補・代替医療として今後大いに期待されるものがある(図1)。
今回の「温泉と医療」講座では、現時点で病気に対する温泉の改善効果(療養効果)が期待されている疾病を取り上げて、専門の立場から広く一般の方に解説されるよう企画されている。今回は次の三疾患を取り上げたが、今後可能な限り関連テーマについて順次本講座で紹介していく予定にしている。
1 呼吸器疾患(気管支喘息、慢性閉塞性肺疾患など)
2 老人性痴呆(認知症)
3 運動器疾患(慢性関節リウマチ)
表1
図1
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