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日本の温泉地再生への提言 [43] -第2グループ マスコミ・メディア

流行を追う恐ろしさ
-温泉保養地指向に対する、安易な考え方に一石-
もっと時代の流れをよく見つめたい


野口 冬人
株式会社現代旅行研究所 代表



1.「数年前から気が付いたことだけど、書店の旅行書のコーナーを見ていて、これはなんだ、といった気持にさせられるのだ。まるで原宿の竹下通りか、ひと頃の小海線の清里の風景を思い出させる。それはなにかというと、同じような店、同じような品揃え、同じような客種、そして常に目をうばう華美さがある。だけどよく見ると内容はなんにもないのだ。ただ華やぎだけが流れている。通り過ぎて行く。それが、いまの旅行書のコーナーなのだ。なんの特色も魅力もないではないか」
旅仲間の友人とお茶を飲みながら、旅の話にあれこれと時間を潰している折りに、ふっと彼はそんなことを口にしてなげいた。
それは、私もしばらく前から気になっていたことであった。
たしかに大手の書店へ行くと、旅行書のコーナーがかなり大きく取ってある。それは、旅好きの者にとっては嬉しくもあり、また楽しいのである。
各社で知恵をしぼり、力を投入して世に送り出した旅本は、実に楽しいものであった。私などは旅好きであり、本好きであるから、旅の本も極力収集するようにしている。なけなしのお金をはたして、著者も編集者も全力をそそいで造り上げた本を手に入れた時には、実に楽しく、心豊かな気持ちにしばらくは浸れたものであった。
それはもう過去のよろこびとなってしまっている。今日では、旅行書のコーナーに立って、心おどることはない。どころか、なんとも暗い気持ちに追いやられてしまうのだ、
旅行書のコーナーは華ざかりである。それは、雑誌とも本ともつかないムック版の本や、情報版のたぐいが、所せましと並べられてある。これでもか、これでもかと、各社で力を競って同じ本を出している。それはまず感心するくらい同じなのだ。タイルの同じなのは仕方がないとして、内容まで同じでは、なんともやり切れない。
<同じでも切り口が違うよ>
とは、ある社の編集者の言であるが、切り口をみたって、そんなに大きく違うわけではない。小手先の違いなどは、大勢からみたらたいした違いとうつらない。それよりなにより、同じ場所、宿を取り上げて、同じ写真をどの雑誌も同じように取り上げている。それぞれが撮影したものであるなら、同じ被写体でも微妙な違いがあるものだ。それがない。モデルも同じだ。あきらかに宿からの借り写真である。そんな宿情報の雑誌があまりにも多過ぎる。こころみに書店の旅行書コーナー、これはほとんど情報誌が占めているが、その雑誌を手に取ってみて、比べてみたらいい。同じものが、なんと多いことか、せっかく目を引いて、買っておこうかと思っても、隣を見れば、同様のものが、多少の目先を変えて並んでいる。
<読者を馬鹿にするな・・・・>
思わずそんな気持にさせられてしまうのだ。華やかに目を引く旅行書コーナーだけに、あまりの各社の特性のなさに、がっくりしてしまう。一見華やかに、華麗な表紙を並べているだけに、内容のうつろな情報版、特に宿ものの雑誌は、もはや個性はどこにも見られない。
ペンションが華やかに若い人を誘い、一種の流行に浮かれた清里は、今やすっかりひと頃の華やかさは失った。ペンションはすっかり衰退し、あれほど熱を上げた若い女性たちは、どこへ行ってしまったのだろうか。流行の恐しさを切実に見たのが清里であった。

2.今、高齢社会に入って、世は健康指向に強い関心が払われ、いわば<健康ブーム>とまでいわれている。
人間は、どんなに健康体、丈夫を誇っていても、年齢が上がるにつれて、何処かしら不調をきたす所は生まれてくる。生身であってみればそれは仕方がない。健康に注意を重ねた日々を送っていると自信を持っている人も、当人が知らぬ間にいつか身体にほころびはできている。
血圧の不安、血糖値、尿酸値などが、知らぬ間に限界値を超えている。超えていないまでも、限界線を上下していて、いつ病人になっても不思議でない<未病>の状態にいる人は多い。
<どこといって悪いところはないのに、毎日の身体のだるさに困っている。環境の悪い日々の都会生活に疲れがたまっているのではないか・・・・>
ノイローゼではないが、ときとして不眠症に悩まされる。慢性の頭痛、運動不足など、都会人の生活にいい所はない。不健康を絵に書いたような生活である。
自分も含めて、私の身のまわりには、こうした状態の人は実に多いのだ。
そんな中で、私にとって唯一の救いになっているのが、長年続けている<温泉通い>である。
温泉は、なにはともあれ、疲労を回復させてくれる。少しくらいの身体の不調は、二,三日の温泉行きで、知らぬ間に回復していることが多い。
私にとって、温泉は日々の生活における恵みであり、常に活用したい大切な、健康の素でもあるのだ。
それは私に限ることなく、多くの人々の共通する思いである。
それだけに、今日、急速に、温泉を健康に活用しなければならない。温泉地の保養地化といったことが、盛んにいわれはじめた。時代の流れである。それはそれで決して悪いことではないが、<流行を追っている・・・・>という危機感が私の心の中で常にわだかまって離れない。
<温泉は人間の健康にとって大切な資源である。健康管理に温泉をもっともっと活用しなければいけない。温泉地は保養・湯治に対してもっと目を開かなければいけない>
こうした意見は、今やちまたにあられている。温泉の研究家、大学の温泉好きという教授、急速にのめり込んできた温泉の大家、などなどの経験未熟な有識者が声を大にして温泉保養地化を叫ぶ。
私は、昭和四十年代の末から「療養の温泉」「湯治場」「温泉保養地」などの取材を一貫してすすめ、雑誌に記事を連載し、単行本も数冊を世に送って、〈湯治場〉の大切さをずっと解いてきた。
今日に至って、ようやくそれが全国的に実を結ぼうとしているだけに、社会の片隅に埋もれながら地道に努力してきた私にとって、それは大いに喜ばしいことである。
しかし、その反面では、
<これでいいのであろうか・・・・>
危惧する気持ちが頭をもたげてくるのを禁じえない。
はじめに記したように日本人は、いいとなると我れも我れもと同様のものを求めたがる。右へならえの気持が強く、おのれのオリジナリティは持ち得ない。
旅行のガイドブックは、どれを見ても大同小異の内容をこれでもか、これでもかと打ち出してくる。まったく何も考えていない。あれが売れたから、それと同じ物を作れ、といった考えは、考えるまでもなく根強いのだ。
<そんなことはない。常にオリジナルなものを求め、少量だが、いつもそれは力を込めて作っている。いつも考え、求めている人だっているのだ>
という意見も当然あるが、それはいつも陰に押しやられ、埋もれてしまう。昔からいわれる<悪貨は良貨を駆逐する>だ。

3.先頃、九州と北陸の有名観光温泉地へ訪泉した。その折に、
「いま、健康問題に対する関心が非常に高く、温泉地も保養地としてやって行かなければ、世間の足並みに遅れてしまう。保養温泉地化の方向を検討している」
有名な大観光・歓楽温泉地である。そこが、保養・湯治に大きな関心を示しているのであった。
ちょっとノドに小骨がひっかかった感じがした。
保養温泉地の方向を検討すること自体に、ちっともおかしなことはない。いま、時代の流れの中で、温泉の活用をいま一度検討しなおすとしたら、当然起ってくる問題ではある。<いい傾向ではないか・・・・>と思った。
しかし、A温泉地、B温泉地、C温泉地をめぐって、いずれも馬鹿の一つおぼえのように、湯治・保養温泉地化という意見を聞くに及んで、
<ちょっと待てよ>
と思いたくなる。
<いったい、温泉地の住み分けということを考えているのだろうか・・・・>
全国の温泉地が一様に保養地化してしまったらどういうことになるのであろうか。たしかに温泉保養地が多くなれば、一般庶民としては使いやすくなるし、大いに歓迎すべきことかもしれない。ゆっくり滞在ができ、健康管理のための保養温泉地で、心身のリフレッシュができる。それはまさに理想を絵にかいたような、夢のような話である。
そういったことを盛んにとくコンサルタント、あるいは学識経験者、学識未経験者は多い。それらの先生方の指導によって、温泉地は保養温泉地の方向を盛んに求める。
繰り返していうが、私はそれが悪いとは思わないが、やはりちょっとひっかかる点があるのは否めない。
全国に約3000ヶ所あるといわれる温泉地、その中でも大温泉地、名温泉地とされる所が、400-500ヶ所を数える。そこには観光・ 歓楽を主体にした、団体旅行型の旅館・ホテルから保養・湯治を長年にわたって主体にしてきた温泉地、あるいは数軒ないし一軒宿の温泉など、さまざまな形態をみせて、それぞれが特色を打ち出してきているはずだ。
そして、それによって客種もそれぞれに向く層が、自然に集まって長年のお得意さんが形成されていたりした。大手の旅館はエージェントと組み、大人数のお客を動かして、営業を成り立たせていた。
客層というのは千差万別であるが、特にその折り折りの時代の動きによって、大きく変わって行く。その意味においては、団体旅行華やかなりし頃は、観光バスを何台も仕立てて、列をなして大旅館に集まった。今日、個人旅行が盛んになってくると、今まで団体、グループで動いていた人たちも、個々の旅へと転換して行く。家族単位で、あるいは夫婦で、そしてひとり旅を、好みはどんどん変化している。健康指向も当然強くなっている。
受け入れ側も当然そんな方向性は早くからキャッチしていることはいうまでもないことだが、だからといって簡単に方向転換は、宿が大きくなればなるほど、行かなくなる。
事実、
「最近の方向について、うちも方向転換を考えないではないが、今まで進めてきた営業方針はよういに変えられない。内部のシステムの変更も、ソフト面、ハード面ともに、簡単には動かせない悩みがある。」
の声は、いくつかの大手旅館から聞かされてもいる。
バブル期に大きく成長してしまった宿は、かかえている問題も大きい。

4.保養地造りに水を差すわけではないが、どこもかしこも、保養・湯治最上主義の風潮に押し流されつつある現状は、一考する必要がある。
まず第一に、保養地造りは、それなりの条件を満たしていることが必要だ。
それは、
1)地理的、地域的に温泉保養地として、向いている。
2)温泉がしっかりと湧出していて、量的に充分にまかなえる。
3)歴史的風土として、保養地造りが受け入れられる気運がある。
最低この三つは必要だ。
 誰がみても、あらゆる面からみても、観光歓楽指向で長年やってきた大温泉地が、これからは保養だからといって、急ぎ方向転換をしても、それは定着するものではない。個々では宿造りそのものも、観光指向から保養指向への切り換えは簡単には行かない。従来連泊を好まなかった宿が、急に連泊OKとしても、すべてのハード面、ソフト面がそれに急速に転換できるものではない。よほどしっかりした方向性を見つめた上で、腹をくくって取り掛からないと、途中で息が切れて、結局はもとに戻ってしまうといったことも考えられる。
私は、上の三つの条件がかなっていて、しかも温泉を大切にし、今日の温泉界の求めている方向を充分に検討した上で、
<これなら・・・>
という方向性がきちっと打ち出された所であるなら、観光温泉地から保養温泉地へシフトするのは大いに歓迎したい。
しかしながら温泉の歴史を調べてくると、たしかに温泉は江戸時代の昔、湯治・療養の面から発達してきていることが判る。その中において、時代が移ると共に、歓楽主体が表に出てくる温泉地の存在も見られてくる。いつの時代においても、歓楽と、保養は背中合わせのように続いている。時代によって、どちらが強く世の中にアピールされているかということである。
ひと頃、高級化指向の強かった時代があった。数寄屋造りの宿と懐石料理至上のムードがあった。温泉地はその方向性に大きく傾いて、数寄屋造りは間に合わなくても新和風の宿が人気を呼び、懐石風料理がもてはやされた。
その時代は、そんなに長くはなかった。バブル経済がはじけて、世は不況の波にもまれて行った。そして、手軽な日帰り入浴、立ち寄り湯の人気、健康ブームによる保養・湯治の復活など、この十年、二十年を見ただけでも、大きな並のうねりが如実に感じられる。
温泉地の保養地指向は大いに歓迎すべきものではあるが、その歴史・風土・地理的条件などは充分に検討してほしいと思うものである。


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